風立ちて“D” 〜吸血鬼ハンター2 菊地秀行 [#改ページ] 目次 第一章 冬の村 第二章 旅立つもの 第三章 闇がのぞみしもの 第四章 雨の夜の夢魔 第五章 光と闇の遺伝子 第六章 たそがれの人々 あとがき [#改ページ]  西暦一二〇九〇年。  光は闇を駆逐しようとしていた。  最終戦争後、人類の頭上に君臨した“貴族”——吸血鬼は、原因不明の種的衰退を迎え、たそがれの彼方に没しつつあった。  しかし、その一部は、自らの生み出した妖魔——人工魔とともに辺境の一角に留まり、なお、人々の心胆を寒からしめていた。火炎竜、霧魔、悪鬼——彼らの蹂躙に身を任せるしかない人々の苦渋は、対妖魔プロフェッショナル——“ハンター”の誕生を促し、中でも貴族と人間の混血児・ダンピールは理想の|吸血鬼《バンパイア》ハンターとされた。  そして、いつしか、ひときわ美しいある若者の名が、人々の口の端にのぼるようになった…… [#改ページ] 第一章 冬の村  虚空の高みから冬の陽差しが谷間に落ちていた。ほぼ一直線に続く狭隘な旅の道を行くものが、思わず微笑したくなるほどに明るく、吸い込んだ肺が白い息を速射しながら咳き込むほどに冷たく、そして清々しい陽差しだった。春が近いせいかもしれない。  |谷間《たにあい》の街道はやがて四囲を黒い森で覆われたささやかな平地に達し、辺境の小さな村へと旅人たちを導く。  周囲に点在する牧場や太陽熱農園を含めれば、それでも二百戸ほどの家数になるだろうか。材木と強化軽量プラスチック材を組み合わせた家々の屋根や、日の差さぬ横丁に名残の雪が白く凍え、重い毛皮に身を包んだ獣と見まごう人々の|貌《かお》は硬く厳しい。若者や、まだあどけない子供たちの表情にさえ、生きるためのひたむきさが硬質の仮面となって張りついていた。  村の中央を西から東へ、狭い小川が横断している。清冽な|水面《みなも》に影を落とす頑丈な橋の上を、今、物言わぬ人々の列が重々しい足取りで渡りかけていた。  男が十人、女ふたりの集団であった。古びた保温外套の袖で顔を覆った女の口元からすすり泣きが洩れた。灰色の髪がかかるその肩を、隣の、これも四十年配の女が支えていた。隣人同士というところであろう。一行の雰囲気を決めているのはこのふたりだったが、その哀しみは、男たちの共感を呼ぶまでには到らなかった。  先頭の、奇妙な紋様や呪文を書き散らした長衣を着込んだ老人の顔は、おぞましさで彩られていたし、ひとしなみに同じ表情をこびりつかせた男たちのうち六名は、肉体的な苦痛も露わにしていた。  忌わしいものがその肩に食い込んでいるのだった。  樫の|棺《ひつぎ》である。  しかし、ひときわおぞましいのは、その表面に巻かれた太い鎖だった。まるで、棺の|内部《なか》に眠るものが外へ出るのを無理無体に封じ込めようとでもするがごとく、それは、処置したものの絶望的な恐怖を示して、冬の光に鈍く揺れていた。  橋の中央で一行は立ち止まった。  その部分だけが、橋の両側とも縦横一メートルほど川へとせり出し、広場を形作っている。  先頭の老人が、一方の端を指差した。  棺を背負う男たちの足が勢い良く動き、欄干の手前に進み出た。  老人のかたわらに立つ屈強な男が、ひとつ身震いして腰の武器に手をかけた。長さ五十センチほどの鋼鉄の杭であった。男はベルトのパウチに五本ほどそれをはさんでいた。残りの手で反対側にはさんだハンマーを取り出す。ホルスターの火薬式単発銃には見向きもしない。  悲痛な叫びを放って女が駆け寄ろうとするのを、隣人と、別の男が押しとどめた。 「静かに!」  老人の叱咤が走る。女は手で顔を覆った。支えがなければその場に崩折れていただろう。老人はかたわらの細長い棺に無表情な視線を投げかけ、右手を肩の高さに上げるや、この儀式につきものの文句を唱え始めた。 「我、深淵なる哀悼の意をもちて、ここに告げん。西部辺境第七|地区《セクター》ツェペシュ村住人・登録ナンバー八〇〇九・セカ・ポランの娘ジナ、忌わしき貴族の手にかかりて、昨夕死去す……」  このとき、棺の担ぎ手たちの顔がみるみる青ざめたのに、老人が気づいたかどうか。  十二の眼がせわしなく交錯し、絡み合った幾組かの視線は、必死に澄んだ川面に向けられた。  何もない。おかしなことなど何もないのだ。  棺の中で何かが動いた。  誰かではない。何かが。  男たちの顔が、ゆっくりと棺の方へ吸い寄せられていく。  がちゃり、と鎖が音を立てた。  男たちの顔色が紙の色になった。  村長が杭を握った男の名を呼んだ。 「降ろせ、下へ降ろせ!」  男がひきつるような声を上げて進み出た。  男たちは命令に従わなかった。脳髄も神経も筋肉さえも硬くこわばり、恐怖の蹂躙に身を任せていた。この儀式自体は初めての経験ではない。しかし、今、彼らの肩の上で生じた現象はあってはならぬことであった。今は┬昼なのだ┴。 「欄干の上に載せろ!」  男たちの状況を見てとるや、男はひと声叫んで杭とハンマーを打ち鳴らした。効果は|覿面《てきめん》だった。  男たちの呪縛がゆるみ、棺は投げ落とされる寸前の形で太い手すりの上に停止した。三人の男が後尾を支えている。  春間近な橋の上、奇怪な狂躁であった。  男が足早に近づき、棺の┬蓋の上┴に、研ぎすまされた|鋼《はがね》の先端を置いた。  男の岩みたいな顔にも恐怖と焦りの色が濃い。時刻が彼の豊富な体験とそれに基づく自信を裏切っていた。  棺の音は続いている。眼醒めたものが、四囲の状況を掴めず、手探っているような音と揺れ方であった。  男がハンマーを振り上げた。  突然、棺の音が変わった。猛烈な振動が内から蓋を襲い、雷のような乱打音が棺ばかりか、支える男たちの全身をも揺り動かした。  老人が何か叫んだ。  ぶん! と空気をちぎってハンマーが振り下ろされた。  絶叫と破壊音が交錯した。  杭が棺を貫くのと、厚板を突き破って青白い手が宙に躍り出るのとほとんど同時だった。幼い子供の手が!  それは痙攣しながら何度か空を掴み、次の刹那、ハンマーを握ったまま立ちすくむ男の喉に飛びついた。 「——棺を……棺を……捨てろ!」  男の喉から血塊と言葉が噴き上がった。  凄惨な光景が、かえって男たちの意識を奮い立たせた。肩の筋肉が盛り上がり、棺は欄干から大きく傾き、男の身体を絡みつかせたまま川面に水の花を散らせた。  重しでも詰めてあったのか、棺はぐんぐん水底の灰色に溶け込み、なお消えゆかぬ波紋の中心に、どちらのものか真紅の|水泡《みなわ》が噴き上がってきたが、地上の万物はすべておだやかな冬の光に満ちて、すすり泣く女の声ばかりがいま終焉を迎えた凄まじい悲劇の名残を伝えていた。  雪の重みに耐えていた草の葉が、荒々しい靴音の響きを借りて身を起こした。なんといっても、これからは彼らの世界なのだ。  靴音の主は複数だった。岩みたいに鈍重で、|火星牛《マーシャン・カウ》みたいにたくましい壮漢ぞろいだ。分厚い毛皮のコートを羽織った下からも、筋肉の盛り上がりがわかる。年齢は全員二十代。リーダー格らしいひときわ長身の男でも、三十を越えてはいまい。村の青年団員であった。  全員の息が荒いのは、もう九時間近く丘の斜面を登っているからだ。といってピクニックでないことは、全員の眼つき顔つきから明らかであった。思いつめたようなこわばりは、激怒のあまり泣いているとも見えるかもしれない。内奥から湧き出るどす黒い恐怖を、若さゆえの凶暴さで無理やり抑えつけている——そんな感じだった。後方のふたりは特に息切れがひどい。武器の詰まった木箱を背負っているためもあるが、真の原因は、彼らが登っていくなだらかな丘そのものであった。  奇怪な丘であった。  地上、天空、どこから見ても底辺の直径二キロ、高さ二十メートル程度の平凡な丘陵にしかすぎないのに、ひとたび頂上を極めようと斜面に足をかければ、どのような健脚の主をもってしても、到達に数時間を要するのだ。  丘の頂に黒い廃墟がそびえていた。  男たちの目標である。しかし、この黒々と周囲を|睥睨《へいげい》するたやすい標的は、砂漠辺境帯で言われる|蜃気楼《しんきろう》のごとく、たかだか二十メートルの高さに達するまで、男たちを——いや、挑むものすべてを翻弄し尽くすのだった。  距離が縮まらないのである。  足は確実に斜面を踏みしめ、身体は着実に上昇を告げる。にもかかわらず、前方に望む傾斜も廃墟も、いっかな近づいてはこないのだ。  経験者の話を総合すると、一メートル上がるのに男の足で三〇分を要するという。頂上まで一〇時間——平地でも顎が出る。ましてや登るにつれて傾斜は急になり、疲労は増すばかり。ここ三年、誰ひとり挑んだものがいないのも、理の当然と思われた。  先頭の男——リーダーのヘイグは、仲間たちに気どられぬよう西の方角へ眼をとばした。森の向こう、遥かな白銀の峰々の彼方に陽が沈むまで、あと二時間はある。時刻は辺境標準時で3|A《アフタヌーン》というところか。  わずか一二〇分の間に辿り着き、目的を果たして帰らねば、落ちくる闇の後にどんな運命が待ち構えているか、ヘイグにはわかりすぎるほどわかっていた。  しかも、辿り着けたとして、廃墟の何処に目ざすものが┬眠っている┴のか、実は見当もつかないのだ。懐に見取り図を忍ばせてはあるが、もう数十年前の品で、作製した当人も亡くなっているし、信用できるかどうかわかったものではない。  体力の消耗も著しかった。青年団でも選り抜きの頑健さを誇る連中ではあるが、体力そのものより、精神的な疲労度が激しい。目的地を眼の前にしながら、どうあがいても到達できない焦りが、肉体的限界まで引き下げてしまうのだ。下界からの敵に対し、これはまことに効果的な防衛法と言えた。廃墟に足をかけたとして、┬奴の寝所┴を探し回るだけの体力が残っているかどうか。  ただひとつの救いは、降りるときに限り、丘の魔力が効果を失うことだ。駆け降りれば麓まで二分とかかるまい。  不意に、ヘイグの汗みどろの顔に喜色が湧いた。  眼前の頂までの距離が「現実」と知れたのだ。十メートルもない。空気を求める肺の喘ぎを無視して「着いたぞ!」と絶叫する。背後から、おおと応じる声が上がった。  数分後、一同は廃墟の中庭で休息をとっていた。愚鈍に近いどの顔にも疲労の|翳《かげ》が濃い。 「そろそろいくぞ。武器を出せ」  ただひとり突っ立って周囲を観察していたヘイグが命じた。  二つの木箱の周りに全員が集まった。  蓋が取られた。先端を鋭く研ぎすました白木の杭十本、ハンマー五本、ワインの瓶に自動耕耘機用の燃料とぼろ布を詰めた即製の火炎瓶二十本。加えて、時限信管付き岩盤掘削用の強力爆薬五個。男たちの腰のベルトにも大刃のナイフや山刀がはさみ込まれている。  全員が武器を取った。 「手筈はわかってるな」とヘイグが念を押した。「地図のコピーが信用できるかどうかわからねえが、今は信じるしかねえ。|危《やば》いと思ったら笛を吹け。┬奴の居場所┴を見つけたら二度だ」  血走った眼がうなずき、男たちは立ち上がった。一大作業の開始である。  意外な声がその足を止めた。 「ちょっと。血相変えて何する気よ!?」  全員がはじかれたように位置を変え、武器に手をかけて声の方を向いた。  廃墟で唯一残った石造りの建物——中庭に面したその洞窟みたいな入口の陰から、ひとりの少女が午後の光の中にそっと進み出た。防寒コートの肩に黒髪が揺れ、剥き出しの太腿が寒々しい、というよりなまめかしい。 「リナじゃねえか。何でこんな」  男たちのひとりが問いかけて、言葉を呑み込んだ。全員の眼におぞましさと、やっぱりな、という侮蔑の色が浮かぶ。質問の答えはとうの昔に承知だった。 「何をする気なの? おかしな真似はやめて」  少女——リナは、ヘイグの顔を真正面から見つめて言った。気丈だが決して|険《けん》を感じさせぬあどけなさを残した顔立ちに、聡明さと年相応な女の艶が滲んでいる。春を待つ蕾のような清楚さから、大輪の花咲き誇る艶やかさに移行する直前の奇妙なアンバランスさ。 「おめえこそ、何しに来た?」  ヘイグが粘っこい声で訊いた。眼はリナの素足に落ちている。 「村の騒ぎを知らねえわけじゃあるめえ。あれだけ探して見つからなかったんだ。隠れる場所はここしかねえやな」 「だからって、爆弾まで持ち込むことはないでしょう。杭と火炎瓶で済むはずだわ」 「そんなことより」ヘイグはとりあおうともせず言った。「質問に答えな。おめえはどうしてここに来た。おれたちにゃ、登るところが見えなかったぜ。いつからここにいる?」 「今、反対側から着いたばかりよ。見えなくて当然」  男たちは異様に光る眼を見合わせた。 「するとおめえは、この丘に┬騙されねえ┴んだな——┬やっぱり┴、そうか。ひょっとしたら、村の犯人もおめえじゃねえのかよ?」 「よして。事件のとき、あたしが家にいたのはわかってるでしょ」 「そうだったかな。まあ、┬あんとき┴からおかしくなってる┬おめえら┴だ。陰でどんな力を使ってるかわかったもんじゃねえ」  ヘイグの声が急にこもった。仲間たちに顎をしゃくる。全員が好色な笑みを浮かべてリナの方へにじり寄りはじめた。 「今、調べてやるぜ。裸にひん剥いてな」 「馬鹿な真似はやめて。そんなことしたら、後でどうなると思うの!?」 「へっ。脅しのつもりか?」ひとりがせせら笑った。「おめえと村長の仲ぐらい、村のものみんながご承知よ。ここで、ふつうの女だとわかりゃ、爺さんも大喜びだぜ」 「それによ」ともうひとりが付け加えた。「おれたちみんなに|姦《や》られりゃ、あんまり気持ちがよくて、告げ口もできなくなるって」  ヘイグが舌舐めずりをした。普段から荒っぽいことで有名な——また、それだからこそ、暴虐な移動山賊や人工魔獣の猛威から村を守れる若者たちであったが、今は疲労と、これから起こる事態への恐怖とがどろどろに混ざり合い、生まれたときからお粗末な理性を溶け狂わせていた。  リナは逃げようともせず、ヘイグに腕を掴まれ、抱き寄せられた。脂でぎとついた唇が、可憐なそれを容赦なく覆い、吸った。片手でコートをめくり、太腿を愛撫しながら、舌で形のよい歯の間を割ろうとする。  突然、鈍い音とともに腰のあたりで巨体がふたつに折れた。電光の速さで跳ね上がった膝に急所を猛打され、声も出せずに膝をつくヘイグを見向きもせず、リナの肢体はもと来た入口へ消えた。 「野郎!」  三名の男たちが追った。  怒りと欲望が、まだ昼とはいえ廃墟の中へ押し入る恐怖をねじ伏せていた。  冷え冷えとした暗い空気の中に、奇妙な機械や家具が浮かんでいたが、気に止めぬよう意識しながら走った。彫刻や絵のかかった廊下をいくつも曲がり、リナに追いついたのはホールらしい広大な一室だった。  逃げるコートの肩を突き飛ばし、勢いあまってつんのめるのを三人掛かりであお向けに押し倒す。 「やめて!」 「じたばたすんな。可愛がってやるよ。三人一緒にな」  必死にもがく白い手足と唇を求めて男たちがかがみ込んだとき——  異様な鬼気が一同を打った。リナさえも抵抗を忘れ、恐怖の色を浮かべたのである。異なった姿勢の八つの眼が、同時に闇の一点に集中した。  底知れぬほど奥深い暗黒の彼方から、ひとつの影が現れた。天地を覆う闇よりもなお暗いかと思われた。 「ここは、ひとつの文明が滅びた場所だ」錆を含んだ静かな声が漂ってきた。「去りゆくものをとどめるのは叶わぬ|業《わざ》だが、失われたものに対する礼ぐらいはわきまえたらどうだ」  リナが跳ね起きて人影の背後に隠れても、男たちは身じろぎもしなかった。声すら出せなかった。二十年以上自然と闘ってきた野性の本能が人影の正体を告げていた。彼らがここで見ると予想していたものを遥かに凌ぐ存在。  ホールの入口に足音が湧き、すぐに止まった。  憤怒の形相で飛び込んできたヘイグと残りの男たちが、その場に硬直したのである。 「……な、なんだ、貴様は?」  かろうじて声を絞り出したのはさすが決死隊のリーダーと言うべきだが、わななく声と打ち鳴らされる歯は、彼もまた人智を超える鬼気にうちのめされたことを物語っていた。この瞬間、ヘイグ以下全員の念頭には、即座に丘を下ることしかなかった。 「行くがいい。ここはおまえたち向きの場所ではない」  声に誘われたかのように男たちは立ち上がり、後退を開始した。前方を見たままなのは、背中を見せぬという気魄ではなく、向ければ何をされるかわからぬ恐怖のためであった。┬死ぬならまだいいが┴、と全員の魂がつぶやいていた。  ホールの出入口まで後退したとき、男たちに生気が甦った。窓ひとつない廊下の天井に亀裂が走り、陽光が差し込んでいる。  ヘイグともうひとりが懐中からマッチと火炎瓶を取り出した。ズボンにこすりつけたマッチの火を布切れに点火し、恐怖を追い払うような大きなモーションで投げた。リナの安否など考えてもいない。  炎の瓶は滑らかなカーブを描いて、ふたつの影の足元に落ちた。二千度に達する炎の輪は広がらなかった。瓶は精緻な模様を浮き彫りにした床の上に┬きちん┴と直立していた。チン! と音を立ててその首が、燃える布もろとも床に落ちた。  空中に閃いた銀光を男たちが認めたかどうか。  恐慌が巻き起こった。  野太い悲鳴を放ち、我先に廊下を走り出す。後をも見なかった。断ち切れた理性の切り口から、異世界の恐怖がぶよぶよと湧き上がり、形をとろうとする。それを見まいとして男たちは必死に足を動かした。  足音が消えるのを確かめ、リナはやっと人影の背後を離れた。  可愛らしい舌を突き出し、出入口に向かってアカンベをひとつする。清朗な気性なのか、もう気にした風もなく、感嘆の瞳で切断された瓶と消える寸前の炎を眺め、たくましい影を見上げた。 「凄いのねえ、あなた——」  言いかけて声が途切れた。  闇に馴れた眼が、救い主の顔を確認したのである。冬の静夜を結晶させたような美しい顔を。 「どうした?」  声にはじかれ、リナは脳裡に浮かんだ言葉を口にした。素直な娘だった。 「あなた、|いい男《ハンサム》ねえ! もう、びっくり!」 「帰りたまえ、君のいる所でもあるまい」  冷たく、というより無感情に美貌の主は繰り返した。リナはすでに相手の全身を無遠慮に眺めるだけの心の余裕を取り戻していた。  年の頃は|二十歳《はたち》に満つまい。鍔広の|旅人帽《トラベラーズ・ハット》と、黒のロング・コートの背に負った優雅な長剣が、単なる旅人ではない青年の身分を示していた。胸元に青いペンダントが揺れている。意識が呑み込まれそうな深い青は、この青年にふさわしいと思われた。 「┬ふん┴だ。どこにいようとあたしの勝手でしょ」内心とは逆の言葉がリナの口をついた。「そんなこと言うなら、外まで送ってよ」  意外なことに、青年は音もなく入口の方へ歩き出した。 「ちょ、ちょっと待ってよ、この。——気が早い|男《ひと》ね」  あわてて追った。コートの端か腕にすがりつこうかなと思ったが果たせなかった。外界のすべてを酷烈に遮断する厳しさがこの青年にはあった。  無言で後に続き、中庭に出た。  あきれたことに、青年はすぐさま身を翻し、入口の方へ歩き出したのである。リナは跳び上がった。 「ま、待ってってば。まだお礼も言ってないじゃないの。馬鹿!」 「日が暮れる前に帰れ。下りは┬普通の道┴だ」  ふり向きもせず放った影の言葉に、リナは眼を丸くした。 「どうして知ってるの? そう言えば、あなた┬いつ┴ここへ来た? まさか、┬普通に┴登れるんじゃないでしょうね!?」  入口の寸前で青年の歩みが止まった。こちらを向かず、 「君も┬登れる┴のか」 「そうよ。ある事情があってね」  ここぞとばかり、リナは気負いこんで言った。 「ききたくない? ききたいでしょう? わざわざ、こんな廃墟へ——貴族の城跡へやってくるような人だもんね」  青年はまた歩きだした。 「あー、こらこら」リナは地団駄を踏んだ。「せめて名前ぐらい教えてよ。でなきゃ、日が暮れても帰らない。私が妖魔に襲われて怪我でもしたら、一生良心がうずくわよ。私、リナ・スーイン」  強引な要求が効いたのか、入口の闇に同化した影から低い声が漂ってきた。ただひと言。 「D」  その夜遅く、村長のもとをひとりの|吸血鬼《バンパイア》ハンターが訪れた。 「これは——」  寝間着の上にガウンをひっかけ、寝ぼけ眼で降りてきた村長は、壁を背にして居間の隅に立つハンターの美貌に絶句した。 「メイドが魂を抜かれたようになるわけじゃ。こりゃ、わしの家には泊められん。娘がひとりおるし、婦人連の出入りも激しい」 「馬と荷物はもう納屋に入れた」Dは静かに言った。「話をきこう」 「その前に、かけたらどうかね? 長旅の後じゃろ」  Dは動こうともしない。椅子を示した手を所在なげに戻して、村長はうなずいた。暖炉に薪と固形燃料をぶちこんで次の指示を待つ下男に出てゆけと命じる。 「敵に背中は見せんというわけか。なるほど、わしがおまえの味方という保証はないが」 「おれの前にゲスリンが雇われたはずだ」  Dが尋ねた。村長の言葉などきいていないようにもとれる。  見るからにアクが強そうな村長が、これに不快な表情ひとつ見せないのは、この超A級ハンターの実力に関する噂をきいているせいもあるが、何よりもそばに立っているだけで、別世界の住人だということが血肉に感じられるからであった。その人間離れした美貌もさることながら、四囲に放たれる鬼気が人間たちの最も深い部分に秘めた記憶を励起してしまうのだ。未知なる闇への恐怖。 「彼は死んだ——」村長は吐き捨てた。「腕ききのA級ハンターだったが、┬貴族┴を見つけることもできずに、八歳の娘に殺されてしまいおった。喉を引きちぎられただけじゃから┬生き返って┴は来まいが、前金で十万ダラス——大損じゃ」 「奇妙な状況だったそうだな」  村長が、ほお、という表情をつくった。 「そこまで知っておるか。さすがダンピールだの。地獄の風の音もきき取るという噂は嘘ではないらしい」 「………」  村長は、半月ほど前、橋の上で生じた惨事を手短に説明し、最後にこう付け加えた。 「すべては昼日中に起こったのじゃよ。見たところ、おまえはわしの七十年の人生より多くのものを眼にしてきたようだが、陽光の下で歩き回る貴族の犠牲者もその中に入っておるか?」  Dは沈黙した。それ自体が答えだった。  あり得ない。貴族もその犠牲者も、夜の中でのみ偽りの生を許されているがゆえに、陽光の世界を人間たちに譲り渡したのだ。 「わしが何故おまえを呼んだか、もうわかったじゃろう。考えてみるがいい。忌わしい貴族どもとその|眷族《けんぞく》が、夜のみならず朝日の下を自在に闊歩しだしたら、この世界がどのような事態を迎えるか?」  部屋の冷気と闇とが急速に増したようであった。|発電機《ダイナモ》の損耗を防ぐために、夜間の照明は獣脂を燃料とするランプに頼るのが辺境の常識だ。老人は燃えるような瞳で前にかざした両手を凝視し、Dは彫像と化したかのように身動きひとつしない。  してやったりと村長は胸の中でほくそ笑んだ。相手の精神に与える効果を十分に計算して放った言葉は、この美しい┬混血┴のハンターにも打撃を与えたはずであった。これで、明日からはやや御しやすくなるだろう。  しかし、 「事件の成り立ちをきかせてもらおうか」  焦燥も恐怖も含まぬDの言葉に、村長は一瞬二の句がつげなかった。血に飢えた吸血鬼たちが昼の世界を蹂躙する恐怖も、このダンピールにとっては他人事なのか。驚きを顔に浮かべる寸前で呑み込み、村長は必要以上に抑えた声で話し出した。  発端は、あの廃墟と四人の子供たちであった。  廃墟そのものがいつからあの丘に建っていたのか、今では知るものもない。二百年近く前、村の創始者たちが初めてこの土地に足を踏み入れたとき、すでに蔓草のはびこる廃墟であったという。幾度か、┬あの丘┴を越えて決死隊が足を運び、|古《いにしえ》の素姓と見取り図の作製を行ったが、そのたびに奇怪な現象が多々発生し、五十年ほど前「都」からやってきた調査団を最後に、丘の頂を極めるものは久しく絶えたのである。  村に住む四人の子供たちが行方不明になったのは、十年ほど前にさかのぼる。  農夫ザーコフ・ベランの娘(当時七歳)と同じく農夫ハンス・ヨーシュテルンの息子(当時八歳)、教師ニコラス・マイヤーの息子(当時十歳)、それに雑貨商ハリヤミダ・シュミカの息子(当時八歳)の四人が、冬のある日、忽然と村から消えた。当時、近隣を荒らしまわっていた次元渦動獣ヌビの仕業ではないかと騒がれたが、丘の中腹で遊んでいた四人を目撃した村人もおり、疑惑の眼は廃墟に向けられたのである。  五十年ぶりに決死隊が編成され、廃墟の大捜索が行われたにもかかわらず、子供たちの行方は|杳《よう》として判明しなかった。いや、一週間にわたる捜索の末、決死隊の中にさえ姿を消すものが続出し、広大な廃墟の入り組んだ通路や薄暗い地下室の全部を見極めることはできぬまま捜査は断念されたのである。  悲嘆にくれる両親には、子供たちは折り悪しく村の近くを通りかかった人買い商人か、次元渦動獣が連れ去ったものらしいと告げられた。彼らを待つ運命がいかなるものにしろ、貴族の屋敷の跡に消え去ったと考えるよりは、心慰められる結論だったからである。  事件勃発から半月後の夕刻、悲劇は一応の大団円を迎えることになった。近くの森まで|月茸《つききのこ》を採りに出ていた粉屋の女房が、とぼとぼと丘を下ってくる数個の人影に気づき、村中がでんぐり返るほどの大声を張りあげたのである。  子供たちは還ってきた。  そして、それが歓びと新たな恐怖の発端であった。 「まず、子供たちは三人しか帰還しなかった」  老村長の声はともすれば、暖炉の薪のはぜる音にかき消されるほど細くなった。 「タジール——雑貨商シュミカの息子は、ついに戻らなかったのじゃ。今なお行方は知れぬ。父と母が哀しみの果てに亡くなったのも無理からぬ事じゃろう。せめて、全員とは言わぬ、もうひとり還らぬものがいれば——」 「子供たちは┬調べた┴のか?」  Dが視線をドアの方へ向けたまま尋ねた。  侵入する敵に対する心配りだろう。ハンター同士でも、その名声、実力を巡る敵意と闘争心には凄まじいものがあるときいている。Dの瞳は半ば閉じられていた。村長はふと、この美しい青年が、壁を通して夜風と会話しているのではないかと思った。 「無論じゃ。催眠法、精神深層吐露剤、サイコ・ウィットネス処理、考えられる方法はすべて試してみた。不憫ながら、昔通りの処置もとった。今でも泣き叫ぶ子供らの姿が夢に出てくるわい。だが、無駄じゃった。行方不明の期間だけ、彼らの記憶と精神は完全な空白で占められていた。外的強制によるものか、子供たち自身の潜在意識の対発狂策によるものかもわからん。もっとも後者だとすれば、ヨーシュテルンの息子に関しては不幸な結果に終わったと言うべきじゃろうな——クオレは今も狂ったままじゃ。  従って、城跡で何が起こり、彼らが何を見たのかは、ついぞ謎に包まれておる。唯一の救いは、全員が貴族の口づけを受けなかったことじゃろうか。クオレはともかく、後の二人は至極まともに育ち、それぞれ学校の教師と、村でいちばん出来の良い生徒になっておる」  ここまで話し、ようやく気が楽になったのか、村長は壁際の粗末なサイドボードに近づき、地酒の瓶とグラスを二個とって戻った。 「どうじゃ、一杯?」  差し出した手が途中で止まった。ダンピールの食事と飲み物を憶い出したのだ。それを保証するかのように、 「酒はやらん」  と低く答え、Dは窓の外の澄んだ闇に視線をとばした。 「犠牲者の数と襲われた状態は?」 「……これまでに四名。すべて村の近辺じゃ。時刻は夜にかぎる。犠牲者は全員始末した」  村長の声が途切れた。その行為の凄惨さを思い出したのか、グラスを握った手が小刻みに揺れた。犠牲者の中には、吸血鬼になりきっていないものも含まれていたのである。 「行方不明の子供を見つけて┬滅ぼす┴——春間近というのに厄介な仕事だ」  激しい音を立てて、村長は鋼のグラスを机に叩きつけるように置いた。中身が跳ね上がり、ガウンの袖と|掌《てのひら》を濡らした。 「タジールが——シュミカの息子が手を下したとは決まっておらん! どこからか生き残りの貴族が忍んできたか、他の村を放逐された彼らの犠牲者が、近隣をうろついている可能性も高い。まず、それを確かめることじゃ」 「陽光の中をうろつく貴族や犠牲者がいると思うか?」  静かな問いに村長は詰まった。それは、先刻彼がDに放ったものであった。不意に村長は不審の相を浮かべてDの腰のあたりに眼をやった。かすかだがおかしな笑い声をきいたような気がしたのである。 「明日中に、犠牲者と襲われた状況、その後の経過と処置について詳しいデータをつくってもらおう」  Dは淡々と言った。これから行う仕事にいかなる感情も持ち合わせていない非情の声であった。陽光の下を歩く妖鬼——前代未聞の敵を前に、この|吸血鬼《バンパイア》ハンターは恐れも知らぬのか。村長は貴族に対するのとは別の畏怖を込めて、若者の厳しい美貌に視線を注いだ。 「それと、生き残った三人を訪ねてみたい。遠くなら、住まいの地図も要る」 「地図の必要はないわ」  いきなりドアが開き、花のような笑顔と声がふたりの視線を釘付けにした。  好奇の光に満ちた瞳がDのそれを見返し、 「驚かないの? あたしが立ちぎきしてたの、ずっと気づいてたのね。教えてあげる。ルーカス・マイヤーは学校にいるわ。クオレのとこへは放課後、連れてってあげる。あとのひとりは探す必要ないわ。——また会ったわね、D」  農夫ベランの娘、今は村長の養女リナ・スーインへDはかすかに黙礼を送った。 「ねえ、大丈夫なの?」  翌日、学校へ向かう二頭立ての馬車の上で、手綱を握るリナが訊いた。 「何が、だね?」 「こんな朝っぱらから外へ出て、さ。ダンピールって昼間は苦手なんでしょ、貴族の血が混じってるから」 「おかしなことに詳しいな」  六本脚のミュータント馬の背に眼をやりながら、Dがつぶやいた。|精神感応者《テレパス》なら、冷たく閉ざされた人間的意識の奥に、苦笑の翳を捉えたかもしれない。  人間と吸血鬼双方の特質を受け継いだダンピールは、その生理的側面においても両者の影響を色濃く受けてしまう。  人間は夜を眠り昼に眼醒め、貴族たちは逆だ。二種の遺伝子が相争った場合、基本的な生理現象においては貴族——吸血鬼のそれが優先するとされる。昼は眠り夜は眼醒めるよう、ダンピールの肉体が要求するのである。  しかし、左利きの人間が訓練によって左右等しく使い得るように、人間の遺伝子の励起に従い、人間と同様の生活を行うことも事実上可能だ。筋力、視力、聴力、あらゆる物理的パワーを、ほぼ正確に吸血鬼の半分まで身につけた彼らの最大の利点はここにある。五割とはいえ、人間の及びもつかぬレベルの能力を秘めて、昼夜ともに貴族と|戈《ほこ》を交え得るのである。  とはいえ、基本的生理の要求を拒む以上、陽光下の行動がダンピールの体調を著しく阻害することは否めない。バイオリズム曲線は深夜を境にぐんぐん低下し、正午に最低レベルに達する。陽差しは肌を灼き、そよ風にあおられるたびに、細胞ひとつひとつが針で刺されたような苦痛に軋む。場合によっては|火脹《ひぶく》れさえ生じるのだ。  バイオリズムの低下による倦怠感、嘔吐感、喉の乾き、わずかな行動にも伴う鈍重な疲労——呵責なき昼の攻撃に耐え得るダンピールの数は一割にも満たないという。 「でも、あなた、全然平気みたいだ。つまんないの」  リナが口を尖らせ、すぐ手綱を引きしぼった。馬がいななき、馬車の底からブレーキ板が地面に打ち込まれる。 「どうした?」  驚いたふうもなくDが訊き、リナは前方を指差した。 「あいつら、またいるわ。クオレも一緒よ。昨日のことといい、一体、何しようっていうの?」  十メートルばかり先の崩れた石垣の下を、一団の男たちが曲がるところだった。数は七人。うち三人はヘイグを筆頭に、昨日廃墟で見た顔だ。  こづかれながら先頭を行くのは、身にボロをまとった十七、八の青年だった。大きい。身長一九〇センチ、体重一〇〇キロはあるだろう。虚ろな眼差しで、自分の肩までしかない男に押されるまま、小道を進んでいく。 「ちょうどいい。会いに来たところだしな。あの先には何がある?」 「妖精の飼育工場跡よ。もう随分前から使ってないけど、噂じゃ、危ないのがまだ残ってるそうだわ。——あいつら、まさか、クオレを!?」 「君は学校へ行け」  最後の言葉をリナが耳にしたとき、Dはすでにコートの裾を翻して小道に向かっていた。  石垣の下を曲がるとすぐ、工場の建物が眼に入る。建物といっても、まだ使える材木やプラスチック補強材は持ち主が処分したらしく、穴だらけの木壁と屋根が派手に傾いた倒壊寸前の家屋にすぎなかった。冬の日が、残雪の残る寒々しい敷地や枯れた樹々を白く照らしている。  男たちは、やや傾斜角度の少ない建物に吸い込まれた。人通りなどないと安心しきっているのか、背後を見ようともしない。  三〇秒ほど経過しただろうか。  建物の奥から絶叫がほとばしった。複数の叫びだ。単なる恐怖と遭遇した|類《たぐい》の声ではなかった。凄惨な響きに脅えたものか、建物脇にそびえる木の枝が雪塊を振り落とした。続いて、膨大な質量の砕け散る破壊音。  残響が消えてから、わずかに遅れてDは建物に入った。  悲鳴は途絶えていた。  Dの眼がわずかに赤みを帯びる。濃密な血の匂いが鼻孔をついたのだ。  男たちは全員、石の床に伏していた。妖精の飼育場だった過去を偲ばせる鋼鉄の檻が数台壁際に並んでいる他はだだっ広いだけの内部に、血臭と呻き声が満ちている。男たちがクオレを連れ込んでから三〇秒足らずの仕事にしては、あまりに手際が良すぎた。何かしら異形の力が暴走したに違いない。  血溜りで痙攣中のワルどもより、二つのものをDの視線が捉えた。  檻の前にへたり込んでいるクオレの巨体と、石壁にぽっかり開いた破壊孔である。差し渡し二メートルほどのいびつな大穴は、暗い床に朝の光を注ぎ込んでいた。八人の壮漢たちを血の海に沈めたものは、そこから逃げたのだ。  青年たちには眼もくれず、Dはクオレに歩み寄った。優雅に身を屈め、 「おれはDという。何があった?」  どろんと濁った青い瞳がのろのろとDに焦点を合わせた。偽りの発狂ぶりではない。右手がゆっくりと上がり、壁の破壊孔を差す。干からびた唇が粘っこい言葉を吐き出した。 「血だ……」 「なに?」 「……血だ……おれじゃない……」  大量殺傷の犯人を差しているのだろうか。  Dの┬左手┴が汗ばむ額に触れた。  クオレの瞼が落ちた。 「あの城で何を見た?」  周囲の惨状など知らぬげなDの声であった。惨劇の犯人が誰だとも訊かない。  しかし、彼の左手は、狂人の精神にさえ真実を語らせることができるのか?  とりとめのない表情に、ひとつの「意志」が芽生えたようであった。  青年の喉仏が上下し、言葉の漏出に備えた。 「何を見た?」  Dがまた訊いた。訊きながら右手を肩に上げて振り向いた。  瀕死の男たちが起き上がるところだった。 「|憑《つ》かれたな」  Dの視線が男たちの足元をなめた。ブーツの底から長々と延びた影は人間のものではない。芋虫の胴を思わせる身体と、針金のように細い手足のグロテスクなアンバランスさ——妖精のそれであった。  飼育されていた邪妖精の┬ひとり┴が逃亡し、工場のどこかに潜んでいたのだろう。貴族たちがばらまいた人工獣のうち、妖精は例外的に友好的性格のものが多いが、核戦争以前の古代文明期に存在していた愛蘭土のゴブリン、ポーキー、インプを模した種類は、その残虐さで辺境の人々を恐怖させていた。ポーキーの一種レッド・キャップは、┬生まれつき┴手にした斧で旅人の首を斬り落とし、その名の通り帽子を赤く染める。瀕死の人間を操る|憑依《ひょうい》能力を有するものは、さらに数少ないが、これをうまく使えば、調教不可能といわれる|一角獣《ユニコーン》に広大な土地を開墾させることも、グリム|鶏《ヘン》の産むウラン塊を三日に一個から一日三個に増量することもできるため、貧しい辺境の村々では危険を冒して飼育する場合がままある。意識も定からぬ血まみれの男たちを動かしているのは、その最も凶暴な種族の┬ひとり┴なのであった。  影は手にマサカリを握っていた。  すう、とそれが上がった。  男たちが┬何もない┴両手を頭上にふりかぶった。  ぶん! と音がして、Dの頭部にあたる空間を存在しない斧が薙いで通ったとき、Dはクオレを横抱きに壁際へ跳んでいた。  |機械人形《ロボット》のような足取りで影の操り人形どもが追いすがる。  見えぬ刃が壁にめり込み、鉄の檻の天井を歪ませた。空を切った男がつんのめり、一メートルほど前方の床に火花が散る。  これは影の支配する戦いであった。  Dの背中から銀光がほとばしり、すぐ前方の失神男が振り上げた見えない斧の先端を薙いだ。  手応えはなく、風がDの頬すれすれに走り、壁を沈ませた。  見えぬのではなく存在しない武器であった。  三条の唸りが異なった方角から襲った。それが噛み合い、飛び散らす火花の上を、Dとクオレの影が跳躍した。  白い光が二筋、床めがけて走った。  男たちが硬直し、手首を押さえた。重いものが床に落ちるような音が次々に轟いた。現実に、彼らは武器を┬落とした┴のであった。  どおと自らの血煙をふりまいて倒れる男のひとりに、すでに長剣を収めたDが近づいた。  身体の前に片膝をつき、「きこえるか?」と訊く。  弱々しい瞳がDを映してカッと見開かれた。ヘイグである。 「……貴様……どうして……?」  荒々しい顔にも似合わぬ情けない声が、床のあるものを見つけて停止した。  石の床に突き刺さった二本の白い針の下で、ヘイグの足から延びる奇怪な影が急速にその姿を薄れさせていくところであった。  なお奇怪なことに、射抜かれた影はひとつだけなのに、他の男たちの影もまた歪み、ねじくれ、激しい苦痛を表現している。寸分変わらぬ動きでもって!  空中から放った針で正確に影の手首と心臓を貫く手練も恐るべきものだが、その神技の精髄を、果たしてヘイグが理解し得たかどうか。  石を貫く針は木製だったのである。  じき妖しい影は消え、男たちのものが戻った。 「……痛え、痛えよ。……早く、医者を呼んで……くれ……」 「訊くことに答えてからだ」  Dの口調は氷を思わせた。数人がかりでいたいけな娘を犯そうとした連中相手である。 「クオレを連れ込んでから何が起きた?」 「……わからねえ。……おれたちは、奴らが犯人だと思った……だから、ひとりずつ制裁を加えて┬確かめる┴つもりだったんだ……それが……」  ヘイグの瞳が急速に光を失った。 「それがどうした?」 「……わからねえ……医者を……早く……ここへ入り、奴を取り囲んだ途端……眼の前が真っ赤に……┬何かが隠れてやが┴……」  最後の言葉は重い呼吸となって地を這った。死んではいない。失神状態だ。他の連中も同様であろう。耳、鼻、口と鮮血が糸を引いているが、外傷らしきものは見当たらぬ不可思議な傷であった。  Dはふり向いた。  クオレがぼんやりと突っ立っている戸口のずっと彼方から、幾つもの足音が接近してくる。リナか、あるいは青年団とクオレの姿を目撃した村人が、治安官を呼んだのであろう。この若者たちの蛮行は、よほど顰蹙を買っているものと見える。  Dはクオレに眼をやり、すぐきびすを返して壁の破壊孔へと向かった。 「どうした。訊問を続けんのか? 治安官とのトラブルを恐れていては、いつになっても真実は掴めんぞ」  どこからともなく揶揄するような声が上がったが、むろん驚くふうもなく、黒いコートは朝日の中に溶けた。 [#改ページ] 第二章 旅立つもの 「どうかしたかね、リナ?」  優しい声音の内に不審そうな響きを感じ取り、リナはあわてて意識を眼前の教師に合わせた。若いが温厚そうな顔が笑っている。これが、貴族の廃墟で半月ものあいだ行方不明になっていた少年の未来とは誰も信じられまい。 「今朝から他所見がひどいと思って教員室へ呼べばまた同じか——どうしたね、一体? はっきりした連絡はないが、『都』の審査官が来るまで、一週間足らずだぞ」  リナとともに失踪し、無事生還した三人のひとりルーカス・マイヤーであった。父の跡を継ぎ、村の高等教育部の教師を務めている。リナの担任だ。といっても、高等部の生徒はひとクラスだけ、五十人にも満たない。 「ええ、あの、何でもないんです」  リナは頭をかいて、顔へ血が昇るのをごまかそうと努めた。ある男性のことが気になるなんて、口が裂けても言えっこない。 「なら、いいんだがね」とマイヤー教師はふたりの前で呻いているおんぼろ原子力ストーブに手をかざしながらうなずいた。それから急に真剣な口調と眼差しになって「自分の担うものを忘れてはいかんよ」と言った。  ひたむきな響きが、リナを粛然とさせた。 「君は村の希望だ。冬の終わる頃、この村を出ていかねばならん。私たちはみな、君の明日に支えられているのだよ」 「はい」 「——で、試問の方は問題ないとして、『都』の学院で何を学ぶか決めたのかね?」  マイヤー教師の口調が変わった。答えがわかっていて、自分でもそれを望んでいるくせにききたくない——そんな口ぶりだった。 「………」 「数学だね?」  諭すように言った。 「はい」 「それがいい。試験日まで心を惑わせてはいかん。先のことだけを考えたまえ」  教師が明るく言い、リナも微笑みかけたところへ、同級生のひとりハルナが入ってきた。 「どうした?」  少女の頬は紅く染まり、瞳は夢うつつである。硬質木に獣皮を張った椅子から、マイヤー教師は思わず立ち上がっていた。なぜかリナは、ぴん! ときた。 「お客さまです。あの、とっても……とっても素敵な方……」 「?」  少しのあいだ眉をしかめてから、マイヤー教師はお通ししなさいと言った。リナの方を見て、 「では、気をつけてお帰り。——どうしたね?」 「いえ、あの、今日はとってもお天気がいいわあ——」  少女は、雪の反射用塗料を塗った窓のところで、居残る算段をしていた。 「普段と変わらんようだがね」 「お部屋汚れてます。今からお掃除しちゃいましょうか?」  マイヤー教師が心底不安そうな表情になったので、リナはしまったと思った。  丈の低い入口から、屈むようにして長身の影が入ってきた。  ほお——と感嘆の声を発しかけ、教師の体面上かろうじて喉の奥で押さえると、マイヤー教師はようやくリナの不審な行動の理由と居残り作戦を見破った。戸口でぼんやり突っ立っているハルナを追い出し、リナにお知り合いかねと訊く。 「彼女の家に厄介になっている」と女生徒を預かる教師にとってはおよそ歓迎すべからざる訪問者が、壁際に立ったまま言った。「おれはD。吸血鬼ハンターだ。となれば、用向きはわかると思うが」  さすがに、マイヤーの知的な温顔がこわばった。長いあいだ胸に秘めてきた禁断の秘密を暴くために派遣された使者を見るような眼つきで、椅子を勧める。 「結構」  Dはあっさりと辞退した。にべもないが、不愉快な言いようではなかった。 「リナ」と教師がせかした。これから始まるのは、少女向きの物語ではない。リナは救いを求めるようにDの方に眼をやり、知らん顔なのを知るとちょっぴりふくれっ面で部屋を出ていった。  ドアが閉まるとすぐ、マイヤー教師は真顔でDの方を見上げた。他に教師の姿はない。 「リナの家にお泊まりなら、村長から事情はすべておききですね。正直言って、私の方が真相を知りたいくらいなのですよ。┬私たち┴の過去の一時期を黒々と覆う闇と、今回の事件とがもしも関係あるならば、私は先頭に立って、このつながりの果てにあるものを見極めたい——こう思っています」  真摯な口調をDがどう受け止めたか。 「十年前の記憶があれば、きかせてもらいたい。村長の話しか知らんのだ」  躊躇なくうなずいたものの、マイヤー教師の硬い表情はあまり実りのないことを示していた。 「申し訳ないが、多分、村長の口からおききになったことがすべてです。十年前のある日、私たちは丘の麓で遊んでおりました。リナが花を摘んで首飾りをつくりたいといい、タジール——まだ発見されていない子供です——がつまらないと反対したのを覚えています。結局、男の方が折れ——いつの世も女は強いですな——退屈な作業にかかりました。私も何本か採ってリナに手渡し、それから……」 「それから?」 「別の場所に移り……また何本か摘んで、ふり向いたのです。それっきり気がつくと、半月後に丘の中腹を下っているところでした。その間の記憶を喚び醒まそうと、あらゆる手段が使われたのはご存知ですね」 「ひとつ、見てもらいたいものがある」  初めて位置を変えながらDが言った。太い丸太を組み合わせた頑丈そうな机に近寄り、巨竜の牙でつくった筆立てから、ハルピュイアの羽根ペンを取り上げる。そばの再生メモ帳も一枚破った。 「何でしょう?」 「おれも┬苦手なものさ┴」  そのくせ無表情は変えず、素早く二度ペンを動かすと、Dはごわごわの再生用紙を教師の眼の前に突きつけた。 「これが——何か?」  けげんな表情が迎えた。 「何でもない。失礼した」  大きく┬十字┴を描いたメモをDは丸めて屑篭へ捨てた。篭も巨竜の骨である。全長二十メートルに達する凶暴無比な野獣も、ひとたび手にかかれば骨のひとかけら、腱の一本に至るまで人間の役に立つ。このような小さな村にとっては、脅威よりも生活の|糧《かて》という意味合いが大きいはずだ。 「それ以来、あの丘を登ったことは?」 「私はありません。あの事件についてリナと話したことも」 「もうひとつ。クオレ・ヨーシュテルンは発狂した。君自身におかしな点はないか?」  マイヤー教師は苦笑した。 「生徒に訊かれた方が信を置けるのではありませんか。自分では常人並みと思っていますが、正直に申し上げて、これまで発生した事件時に現場にいなかったとは証明できません。ひとり暮らしですし、ひょっとしたら、自分でも気づかぬうちに家を脱け出し、犯行を終えてからすべての証拠を|湮滅《いんめつ》した上で平凡な教師に戻り、ベッドの上で朝を迎えた——こうでないとは言い切れないのです、陽光の中を歩く貴族が存在するならば。貴族の犠牲者は、おしなべて加害者と等しい生理的特質を持つ——そうでしたね」  Dはうなずいた。  吸血鬼の毒牙にかかった人間が夜の魔物に変貌する際、その貴族的特徴をおおむね受け継いで再生することは、一般常識とされている。狼への変身能力を有する貴族の犠牲者は自らの意思で四足獣に変わり、一定の凶獣を下知し得る貴族は、新たな飼育係を隷属者として持つわけだ。  ただし、生まれた赤児が両親そのものではないように、遺伝的能力にも明らかな差違はある。変身時間は主人より短く、変身時の肉体的特質——スピード、筋力、再生能力等も数段劣る。貴族ならぬ貴族は、やはり、まがいものに過ぎぬのであった。  しかし、この世界に生きる人々にとって何より重大なことに、彼ら疑似貴族を捕らえれば、真の脅威——貴族の能力を百パーセント見極めることが可能なのである。一五〇年前、辺境巡回吏のサマーズ・モンタギューは、数百例におよぶ貴族の犠牲者を分類し、彼らの主人の能力に関する精緻な統計を残しているし、T・フィッシャーなる貴族研究家がものした「犠牲者による貴族のレベル識別法と防御対策」は、『都』の革命政庁から禁書に指定されながら、今なお辺境の人々に広く読み継がれている。  だが、目下この小さな冬の村を襲う貴族の脅威は、その常識に新たな驚くべき一ページを、否、貴族に関する最も基本的な概念と、そのもたらす安堵によって支えられてきた人間の生活すべてを、根底から覆しかねぬ大事なのであった。昼歩く貴族とは! 「吸血鬼ハンターが独特の貴族識別法を持っていることは私も存じています。協力は惜しみません。好きなだけお調べ下さい。私もまた、あの廃墟で何が起こったのか知りたいのです」  若い教師の誠実さは疑いようもなかった。  Dの左手が動いた。  額に伸びてきたそれに教師が思わず身を引いたとき、ノックの音がして返事も待たずに金髪の娘が入ってきた。木を丸く削っただけの|盆《トレイ》に、金属カップをふたつ載せている。 「何だね? 掃除が済んだら帰りなさい」  マイヤー教師がけげんそうに言うのも耳に入らぬ|体《てい》で、「どうぞ」とテーブルにカップを置く。  Dに向けた横顔は真っ赤だ。 「お客さまをもてなすのは悪いことじゃないがね」マイヤー教師がやや不満げな声で言った。「なぜこれほど量が違うんだ? クラス用の地酒は私が自腹を切ったものだと思うが」  教師用の酒は、Dの三分の一にも満たなかった。  冬期、零下一〇度が標準気温の村では、学校でアルコールを飲むことをタブーと見なしていない。 「あの、もうこれだけしか残ってなかったんです」と女生徒はDの方をチラチラ横目で窺いながら言った。「あの、あの、先生は大酒飲みだし、こっそりあたしたちの分まで飲んじゃうし、お客さまなんて滅多に来ないし、それでみんなで相談して、あたしがクジ引きで当たって、なんて素敵な人なんだろ」 「何を言ってるんだ」  マイヤー教師はうんざりした顔で立ち上がり、少女をドアの方へ追いやった。ドアを引いた途端、どどどと娘たちが床の上へ雪崩れ込み、教師の眼を飛び出させた。 「何をしている? 無礼な。すぐ出てゆきたまえ。リーダーは明日、鞭打ち三十回だ」 「四十回でもいいです」と声が上がった。「あたしたちにもお話きかせて下さい。他所の村のことや、『都』のこと」 「先生ずるい」と別の声が抗議した。「こんな素敵な人とふたりっきりで——怪しい」 「ばば馬鹿なことを言うな!」  日頃、冷静沈着をもってなるマイヤー教師もさすがに逆上した。要するに、まだ若いのである。出て行きたまえと、そこは教師、丁寧に怒鳴りつけ、Dにサインでも求めかねまじき女生徒たちの抗議を、鼻先のドアでぴしゃりと閉ざしてしまった。  ふう、と汗を拭きながら席に戻る教師の顔は、しかし穏やかに笑っている。 「お見苦しいところをお見せしました。お気を悪くなさらんで下さい」  珍しいことにDは軽く首を振った。この男の意思表示など滅多に見られる代物ではない。それどころか、全身から放散するダンピール特有の鬼気さえ薄らいでいるではないか。マイヤー教師の口調が親しみを込めたものに変わったのは、敏感にこれを感じ取ったためかもしれない。 「旅の方が村を訪れることなど滅多にないのです。この|地区《セクター》を管理する|気象調整装置《ウエザー・コントローラー》に異常があるようで、春夏はともかく秋になればすぐ雪がちらつくため、冬期の訪問者といえば商人か巡回吏どまり、それも三日と居ついた|例《ためし》がありません。この村は、年頃の娘たちにとってひどく残酷な場所なのですよ」 「ここばかりじゃない」窓の外に広がる青空と白銀の峰々を見つめながら、Dは静かに言った。 「小さな村はみなそうだ。それに、じき春が来る」 「春が来ても、彼らは村を出られません」  Dは初めて、この若い教師がひどく暗い眼をしていることに気がついた。  辺境の村々は小さく貧しい。わずかな人口の移動も死活問題である。作物育成度の極端に低い土地から食料を得、|虎視眈々《こしたんたん》と飢えた視線を注ぐ魔獣たちから身を守りつつ生活を送るには、物心ついた幼児の力まで必要とする。辺境開拓を大命題のひとつとする『都』の革命政府が通達を出すまでもなく、|地区《セクター》単位、|村《ビレッジ》単位で人口の移動を禁じていることは当然の処置といえた。冬の村は、雪の他にもうひとつ、眼に見えない壁で閉ざされているのである。 「いかがでしょう」と、教師が思い決したようにDを見つめた。「ここにおられる間、暇をみて……」 「おれの仕事は別にある」答えは冷酷であった。「できるだけ早く片づけ、片がつき次第村を出る。それだけだ」 「わかりました」  あっさり言って、マイヤー教師はグラスの中身を飲み干した。怨みがましい顔ひとつしない。教師の移動も滅多に許可されないため、未来への絶望と現実の寒さから酒や幻覚剤に溺れてゆくものたちが多い中で、まれに見る傑物と言えた。 「無理なお願いでしたね。ですが、私を調べる前にひとつだけきいて下さい」 「何だね?」 「リナだけは放っておいてくれませんか?」 「あの|娘《こ》も戻ってきたひとりだ」 「出てゆくひとりです」  Dの眉がわずかにひそまった。これも珍しい。引き込まれるように教師は話し出した。 「政府が年にひとり辺境地区の村から最も優秀な子を抜擢し、『都』の教育機関で学ばせるシステムはご存知でしょう。今年はこの村が選ばれました。恐らく、今後ふたたびないことです。お祭り騒ぎになり、数カ月にわたる能力検査の結果、全員一致でリナに決定しました」 「なるほど」 「この生きるだけで精いっぱいの小さな村から、ひとつの才能が『都』へのぼる。噂では、政府は|銀河《ギャラクシー》エネルギー推進船を使い、他恒星への進出を計画しているそうではありませんか。そのための選抜ならば、彼女は真の意味で星になれるかもしれないのです。春夏にわずかな太陽を拝めるだけで、一年の半分を暗く長い冬に閉ざされる村の娘が星々の間を渡る。我々がどれほどこれに励まされ誇りにしているか、あなたにはおわかりになりませんか」 「選抜された子が、それなりの業績をあげれば村にも見返りがある。おれにはそれしかわからん」  こう言ってDはマイヤー教師の顔に眼を据えた。 「君も村のためになると考えているのか?」  意外な質問に、マイヤー教師の端正な顔が苦く歪んだとき、Dの全身から凄絶な鬼気がほとばしった。 「——!?」  精神の深奥を殴打するような衝撃に教師は凍りつき、それでも必死にDの視線を追って、窓外に見える校門を駆けてくる教え子の姿を捉えた。蒼白な顔に珠の汗が浮かび、両手は朱に染まっている。  瞬間に教師は悟った。  すでに戸口をすり抜けたDの後を追って立ち上がったとき、 「またお預けか。よく邪魔の入る日じゃ」  奇妙なしわがれ声がきこえた。  十数分後、マイヤー教師は森の中を疾走していた。前を行くDの姿も足音も耳に入らない。  水はけの良い道はあちこちに残雪を留めたまま乾燥し、走るには不自由なかったが、それにしても人間離れしたスピードであった。一緒に校庭へ出た初等部の教師に血まみれの少年を預け、すぐDを追った。先に校舎を出たDは少年と二言三言話したきりで走り出したのである。そのときは三メートルも離れていなかった。風ですらあの美青年の行く手を阻むのを恐れているのかと、教師は思った。  黒い道のところどころに血痕がしたたっている。少年の手からこぼれたものであった。村から少しはずれた森に住む猟師の息子である。帰宅途中の道で手製の石弓を弄んでいるうちに、誤って薮の中に矢を飛ばした。すぐに見つけたが、別のものも一緒だった。気がついたら校門のところにいたという。両手の血はいつついたものかわからない。まだ九歳の少年だった。  前方に薮が見えた。枝の上に真紅の雪が載っている。細い裂け目を見つけ、マイヤー教師は強引に割り込んだ。  両脚が凍りついた。  有無をいわさず神経に叩きつける凄惨な鬼気に、細胞のひとつひとつが原初の恐怖を甦らせていく。意識は前に出ろと命じても身体が反抗するのだ。人間は霊肉一致の生物などではなかった。  三メートルほど前方にDが立っていた。  さらにその約二メートル先に、赤い毛皮をまとった死骸がうつぶせに倒れていた。顔は見えないが束ねた長髪から女と知れる。他に何もない。誰もいない。  にもかかわらず、自らの全身を絡め取った凶気の発現点を、教師はその女の身体に感じ取った。Dも|虜《とりこ》になったのか。いや。  Dはすでに長剣を抜いていた。切っ先を右足指の先端につくほど低く保った姿勢は、構えと言うには不自然にすぎるが、それゆえに、そこから生じる技の凄絶さを窺わせるものがあった。  あることに気づき、萎縮した教師の胸に歓喜が湧き上がった。凶猛な気はDの周囲に渦巻きながら、その身体には指一本触れずにいるのだった。  彼は恐れていない!  女の上の凶気が動いた。  跳んだ!  Dも空中に舞っていた。厳しい冷気に彫り込まれた秀麗な鷹の像のようであった。  銀光だけを教師は見た。  空間が歪んだ——そんな感じがした。  何かが傍らを通り抜け、薮の一角を吹き飛ばして消えた。  女のそばに着地したDへマイヤー教師は駆け寄った。呪縛は消え、冷たく平穏な空間が広がっているばかりだった。鳥の声もきこえる。  Dは女の傍らに膝をつき、脈をとっていた。無表情な顔は逃亡した何ものかの方を見ようともしない。剣も鞘の中だ。教師は別の生物を見る思いだった。男の自分でさえ見惚れてしまうほど美しいこの若者が、あの凶猛な気の主よりも不気味に恐ろしく思えた。  女の手を下ろし、Dが立ち上がった。左の掌に右手をあてる。「怪我でも?」と訊く教師に首を振り、「間に合ったな」と言った。  教師の胸に安堵が広がった。 「┬今の奴┴ですか?」と訊いて、すぐ眉をひそめる。返事は「いや」と言ったのだ。 「女が襲われたのは体温や血の具合から見て今朝がただ。それに、今の凶気は喉に歯型をつけん。この女を見つけたとき、おれと出会ったらしい」 「一体、何ですか、あれは?」 「わからん。だが、会うのは二度めだ」 「?」 「それより、この女、知り合いか?」  やっとマイヤー教師は肝心の作業にとりかかった。首筋から二本の赤い糸を引いた女をあお向けにする。そばに落ちている小さな篭を見てからうなずいた。 「カイザーという農夫の夫人です。傷薬に使うアルミノンの花を摘みに来て襲われたのでしょう」 「君は今朝、どこにいた? ——答えなくてもいい。犯人はじきわかる」 「わかる?」 「傷口からして、襲った奴は獲物に執心する|型《タイプ》だ。多分、今夜も狙ってくるだろう。おれが見張る。もし来なければ——」 「来なければ?」  Dの語尾に戦慄すべきものを感じ、教師はうわずった声を出した。 「おれがいるのを知ってる奴ということになるな。さっきの生徒たちはおれの職業を知るまいから、残るは村長とクオレとリナ、それに——君だ」  春も間近というのに、マイヤー教師の顔は凍死者の色になった。  まもなく、別の教師の連絡で治安官と村長らが駆けつけ、通り一遍の捜査でカイザー夫人の身体を運び去った。治安官はうさん臭げにDを見つめていたが、村長から話をきいていたのか何も言わなかった。Dも見えない存在については何も話さなかったのである。  Dだけが現場に残った。全員が立ち去ってから左の掌に向かってこう話しかけた。 「具合はどうだ?」 「いいわけはなかろう」  疲弊しきった声が湧き上がってきた。 「あれだけの精神エネルギーをもろに受けたんじゃ。四、五日は回復せんぞ。三人の帰還者の腹の中をしゃべらせるなど無理中の無理。潜在意識どころか表層にも指令が届かん」 「それは困った」 「それでなくとも、日頃からこき使うせいじゃ。今日あすは是非とも┬四つ┴を食らわねばならんぞ」 「今、どうだ? そのために残ったが」 「ふむ。まず、ひと眠りじゃ」 「よかろう」  異様な会話を終え、Dは惨劇の場を離れた。冬の陽もまだ高い。Dは日陰を選んで歩いた。美貌に憔悴の色がひとかけらもないのは驚嘆すべきことであった。  晴雨を問わず、昼にあたる時間は、吸血鬼の血を引くものにとって肉体的生理が休息を要求する。意識を保っているだけでも八時間が限度で、これとても陽の差さぬ場所に逼塞しての話である。陽光下を歩きまわり、あろうことか立ちまわりなど演じれば、まず四時間で仮死状態に陥る。超A級の吸血鬼ハンターがかろうじて五、六時間のフル活動を可能にする程度だ。人間が徹夜するのとはわけが違うのであり、唯一、この大弱点にのみ、人間が貴族たちを駆逐する希望が残されているのであった。  森のはずれまで来て、Dの足がふっと止まった。馬車に乗ったリナが待っていたのである。Dが無言で助手席に座ると、馬車は走り出した。 「家へ帰るなら方向が違うぞ」  少ししてDが言った。 「違ってていいのよ。村でいちばん嬉しいとこへ行くんだから」  まもなく馬車は村の裏手から街道へ出、道に面したちっぽけな小屋の前で停止した。頑丈そうだが粗末な木のベンチがぽつんと置かれ、ランプひとつない内側には雪が吹き込んでいる。 「バス停よ」とリナが明るい声で言った。「村から出ていくたったひとつの駅よ。冬のあいだは不通だけど、あと五日で電気バスが通るわ。わたし、その朝いちばんのに乗るの」 「『都』へ行くそうだな」 「喜んでくれる!?」  真正面から見つめる黒い瞳の輝きに、Dは少し困ったような表情をつくった。 「君は変わった|娘《こ》だな。なぜそんなことをおれに話す?」 「わたしにわかるわけないでしょ」 「?」 「嘘よ」とリナは、途方に暮れる弟に手品の種を明かす姉のような調子で言った。  Dは無言である。あらゆる吸血貴族を震え上がらせてきたファイターも、わずか十七歳の少女のペースに完全にはまり込んでいた。手も足も出ない。このとき、マイヤー教師か村長が彼を見れば、その┬あり方┴ともいうべき凄惨な鬼気が薄らいでいるのに気づき、眼を丸くしたかもしれない。 「ね、どうして笑わないの? 笑うと損するの?」  思わせぶりな質問に、Dはまた返答に窮した。どうもこの娘は苦手だ。 「でもさ、泣くことはあるんでしょ。辛いことだっていっぱいあるんでしょ? わかっちゃうんだから」 「ほう」かろうじてこれだけ言えた。  不意にリナは真顔になった。 「貴族の血を引くって大変よね。あなたのそばには小鳥だって寄りつかないし、ほら、普通に歩いてるのに、雪につく足跡は私の三分の一の深さもない。それにあの廃墟で——」  リナは口ごもった。 「廃墟でどうした?」  冷え冷えと光る瞳に見つめられ、リナは急に頬が熱くなるのを覚えた。眼の前の青年が身の毛もよだつほど美しい男であるのに、今やっと気づいたとでもいうふうに。 「わたし、あなたの後ろに隠れたでしょ」  声まで恥ずかしそうである。 「最初見たときはとっても怖かったんだけど、あなたの言葉をきいた途端、それが抜けちゃったのよね。『去りゆくものをとどめるのは叶わぬ業だが、失われたものに対する礼ぐらいはわきまえたらどうだ』——こう言ったとき、あなた、とっても哀しそうだった」  この少女は、誰にもきき取れぬ別世界の響きをきいたのだろうか。 「記憶と耳のいいことだ」Dはいつもの声で言い、村の入口へと続く街道の方を見た。「そろそろ行かんと、じき日が暮れる。さっきの女を狙って妖魔が動き出す頃だ」 「ねェねェねェ」とリナがおよそ場違いな声を張り上げ、意味ありげにDを肘でこづいた。「あと五日でお仕事済ませてさ、わたしと一緒に村を出ていかない? 前途は薔薇色よ」 「かもしれんな。——乗りたまえ」  ふたりは馬車に乗り、Dが手綱を握った。  リナはその横顔にチラリと眼を走らせると、悪戯っぽく笑いかけた。 「どうしても怖い顔が抜けないのね、深刻屋さん。ひとつ予言をしてあげる」 「予言?」  Dの瞳がきらりと光ったのを知ってか知らずか、リナはわざとらしく眼を閉じ、空気でも嗅ぐように鼻を動かした。 「そうよ、わたしのよく当たるんだから、えーとね——ほら、出た」  それから隣の美しい横顔を夢みるように見つめて、 「あなた、きっと笑いながらこの土地を出ていくことになるわ」  ひとつの寝台を八つの顔が取り囲んでいた。  治安官と村長、マイヤー教師とリナ、屈強な自警団員三名、それと、ただひとり壁を背に立っているDである。 「クオレはまだ捕まらんのか?」  村長が不興げに治安官に訊き、治安官は自警団の親玉らしい壮漢へ眼をやった。名前はファーンという。 「それが、棲家にいやがらねえんで。ですが、自警団と青年団が総出で探してますから、じき見つかると思います」 「後はあいつさえここにいて、もしも吸血鬼がやってくれば、三人の疑いは晴れるのじゃ。なんとかせい」  リナと教師へ横柄な視線を投げながら、村長がせかした。ファーンはへえとうなずき、Dの方へ眼をやった。毒々しい憎しみが渦を巻いている。ヘイグをはじめとする青年団とのいざこざはきいているのだろう。 「そろそろ、来訪時間に入る。全員隣室へ移ってもらおう」  Dの声に他の連中が立ち上がっても、三人そろって不機嫌な顔でそっぽを向いていたが、冷たい視線を注がれると、眼を合わせなくても背筋が凍りつくのか、そそけだった様子で席を立った。 「このふたりは、おれたちが責任を持って見張る。だが、ひとりで大丈夫か?」  治安官の言葉は、万が一Dが倒された場合、呪われた死が夫人を襲うばかりか、別の犠牲者まで出すことを恐れたものであった。  夫人はどうでもいい。吸血鬼の犠牲者に対する処罰は村々によって異なるが、ここでは即座に村の外へ放逐し、運命に任せる。隣村へ出かけた夫も掟には従わざるを得ない以上、治安官が糾弾される恐れはない。  しかし、新たな吸血鬼ハンターが要求したのは、夫人を餌に妖魔をおびき出すという物騒な策であった。しかも、例の三人組を、同じ部屋には入れぬまでも近くに同席させろという。村長の口添えがなければ腕ずくで反対したに違いない。古来、似通った方法で標的を倒せぬばかりか、待ち伏せしたものたちまで毒牙にかかり、村全体が吸血鬼となった例は少なくないのである。何よりも治安官の報酬は『都』からのものを含めれば、村人の五倍近くに及ぶ。やすやすと他人に渡せぬ職であった。 「任せておけ、治安官」と村長が肩を叩いた。「わしの呼んだ男に間違いはないわい」  この前のハンターもあんたが呼んだと胸のうちでつぶやき、治安官はそれ以上無駄口をたたかずに全員を促して隣室へ退いた。  錠を下ろす音が消えると、Dはすぐ右の拳を口にあて、サイド・テーブル上のランプを狙った。軽い吐息と一緒にガラスの内側で燃える炎が消え、部屋は闇の支配に落ちた。  暗雲が月を封じ、春間近とも思えぬ木枯らしが窓枠を揺する不気味な晩であった。  ベッドに横たわっているのは無論、先刻の夫人だ。発見時からそうだったが、夜更けとともに肌は赤みを失い、今では白蝋のような色艶を帯びているのが異様であった。一点の光も存在しない闇の中で、Dは女の顔を走る青い血管さえ見ることができた。  ふと、窓の方を向く。  間断なく叩きつける風の打撃音しかきこえないが、Dの耳は別の物音をききつけたのだろう。  同時に視線はベッドに戻った。  女の首筋——「貴族の口づけ」の痕から、二本の朱線がちょろちょろと流れ始めていた。  ぴいんと緊張の糸が張りつめた。  黒いものが窓ガラスに押しつけられた。  鼻も口元も平たくつぶれた異形の顔が、この世界に属さぬ笑いを浮かべて部屋を覗き込んでいる。  ぱっ! と分厚いものが宙に舞った。  毛布だ。  Dの視線は隣室との境のドアに吸いついていた。寝間着姿の女がこちらを向いた。血のように赤い眼球がDの身体を射た。主人から誘いの手が伸びたのだ。  吸血鬼本人は訪問せず、意のままに動く犠牲者を呼ぶ。よくある手だ。しかし、普通は窓から出す。わざわざ人がいるかも知れぬ玄関を通らせはしまい。盲点であった。加えて、窓の外には奇怪な影がいた。|囮《おとり》か?  女がドアに体当たりをかませようと一歩退がった。Dが|疾《はし》った。けたたましい叫びを発して窓ガラスがはじけ飛び、突風がなだれ込んだ。  隣室で絶叫が巻き起こった。  全員の声をDはきき分けた。女がぶつかるより早く、何かが荒れ狂う隣室からこちら側へ、木のドアがぐうと膨れ上がった。|蝶番《ちょうつがい》のネジが吹っ飛ぶ。ドアの破片と爆風が木の床をささくれだたせ、窓ガラスを外へ撤き散らした。音もなく。  女は部屋の片隅に移動していた。うっと悲鳴がきこえ、黒いコートの陰で崩折れる。ドアが砕ける寸前、Dは女を横抱きに安全圏へ跳んでいたのだった。ドアが膨張してから吹っ飛ぶまで一秒とかかっていない。まさに神速。  ┬それ┴は、Dと三度目の対面に現れたらしかった。  部屋中に凄まじい精神パワーがみなぎり、相手を求めて声なき咆哮をほとばしらせていた。奇怪なことに、Dには┬そいつ┴の体形まで理解し得た。 「首」がDと女に向いた。  凶気の凝集。「四肢」を踏みしめ、襲いかかってくる。  当て身を食らわせ絶息した女を尻目に、Dは長剣を抜いた。待っていたのは意外な結末であった。  窓外に轟く絶叫とともに、凶気が消滅してしまったのだ。ごおごおと夜風の鳴り響く、しかし平凡な冬の空気の中に、Dはつくねんと立ち尽くしていた。  あり得ないことであった。凶猛な気は四散こそすれ消滅は不可能だ。その断片——残存エネルギーだけは、一種のガス塊となって宙に留まる。それがきれいに跡形もない。最初から存在しなかったと考えるのが最も妥当だった。  考えあぐねる代わりにDは動いた。  破壊されたドアと倒れた女に眼をやり、次の瞬間、窓の外に身を躍らせていた。  絶叫の主は窓のすぐ下に伏していた。  あお向けにすると、蒼白なクオレの顔になった。ぼろをまとった胸がかすかに上下している。出血も傷もないが、巨体はひとまわり縮んだように見えた。頬がげっそりとくぼみ、骨格を露わに示している。身体の|内側《なか》から何かが脱け出したような惨状であった。  抱き起こそうとして、Dの身体が空中に舞った。部屋の中へ。  灰色の影が女を抱きすくめていた。全身に暗い布を巻きつけたかのような怪異な人物であった。  粗い生地のマフラーに覆われた顔の奥で、血色の眼がDをねめつけた。女はぴくりとも動かない。白蝋の顔に別世界の悦楽を知った恍惚の表情を浮かべ、大きくはだけた胸元の乳房を影の胸で押しつぶしていた。いや、剥き出しになった生々しい太腿を影の足に巻きつけてさえいたのである。襲うものと襲われたものの描く淫蕩な秘図であった。  異形なものの、そこだけ露出した忌わしい唇の脇から二本の牙がのぞき、あろうことか、女の首についた傷痕からチュルチュルと血の糸をすすり上げているのを認めた刹那、Dの右手が白光を放った。  五本の白木の針が木の壁に食い込む音をききながら、血の唇が笑いの形をつくった。女と絡み合う姿勢には一点の変化もない。この布の塊は身動きひとつせずに移動して、Dの投げ針をかわしたのだ。  Dが床を蹴った。  白い女体が跳び、それを避ける何百分の一秒だけ攻撃に遅延が生じた。銀光は灰色のマントの裾を切り裂き、影とDは互いにその位置を変えた。  部屋中に凄愴の気が満ちた。  初めて遭遇する強敵であった。戦闘のメイン・ファクターは一にスピード、二にパワーである。少なくとも影のスピードはDに匹敵した。  だが——。  影の喉の奥から人間のものとは思えぬ呻きが、木枯らしに乗って流れ出たのである。  マフラーの頭頂から下顎の辺にかけて、┬つう┴と黒い筋が走ったと思いきや、布切れは左右に割れて両肩にわだかまった。全身を両断するはずだったDの刃の仕業である。間髪入れず掌で顔を覆うや、影は窓の外へと跳躍した。  Dも走る。  両者の距離には一分の変化もなかった。  銀色の流れ星!  世にも美しい音を立てて、Dの刃は影の振りかざした長剣で受け止められていた。飛び散る火花に似て二つの顔が遠ざかる。  三メートルほどの距離をおいて着地するのと同時に、二人をつなぐ空間に連続音が|木魂《こだま》した。空中で剣を口にくわえざま影の放った鋼鉄のひょう(※)を、Dの投げ針が迎え撃ったのである。  ひょう(※)はねじくれた鉄釘を四方に露出させたものであった。猟師や地上獣専門のハンターが地面に撤くのをもって通常の使用法とするが、手|練《だ》れは飛び道具として使う。熟練者なら一秒に三個を投擲し、十メートル先で直径五センチの円内に集弾させることが可能だ。貴族特有の怪力がこれにマッチすれば、巨竜の装甲をも撃ち抜くマグナム・ガン並みの威力を発揮する。  Dの左頬から赤い線がひと筋流れた。  だが、手傷を負わせた影もたたらを踏んで後じさる。顔を押さえた左手の親指が根元から消失していることを、ようやく雲間から覗いた月が認めたかどうか。  長剣を正眼に構え、どちらも動かない。  冬の名残を告げる風の怒号に乗って、これはいつ果てるとも知れぬ超人と魔人の死闘であった。  轟音が終了を命じた。  Dの上体がわずかに揺れる。緊張が破れた。突っ込もうとして影はとどまり、次の瞬間宙へ躍った。  石垣を越え、闇に溶け込む速度は風以上であった。  Dの身体を貫いた銃火の二撃めを恐れたわけではない。巨弾を脇腹に受けながら、Dの剣先は微動だもしていなかったのだ。  ひときわ強い風が敵の気配を吹き散らし、Dはなだらかなカーブを描く長剣を鞘に収めた。右脇腹のコート地が大きくはじけ、マグナム・ガンの命中個所を示しているが、美しい顔にはいかなる感情の色もない。  窓の方で怒号が入り乱れた。リナと村長の声に、|間違い《ミス・ショット》だと叫ぶ治安官の抗弁が混じる。  Dは窓の下に倒れたままのクオレに近づき、軽々と抱き上げた。必要な場合以外、左手しか使わないのが優れたハンターの特徴だが、平然とセオリーを無視する。  窓から飛び出そうとする治安官を「追っても無駄だ」と押しとどめる。 「女はどうした?」 「まだ生きてるわ」とリナがベッドに寝かせた夫人の脈をとりながら言った。  音もなく、Dが部屋に舞い降りた。 「この子を寝かせろ」 「当たらなかったのか?」と治安官が、手にした武器とDを交互に見比べながら訊いたが、返事もせず、駆け寄ったリナにクオレを委ねた。 「D——血が!?」 「すぐ治る。何があった?」 「わからないわ」リナは首を振って村長を見た。無傷らしい。村長の方は額に大きな|瘤《こぶ》が盛り上がっていた。 「何があったもなにも——いきなり身体が空中に浮き上がったと思ったら、頭から床に叩きつけられておった。一体何が起こったのか、こっちが訊きたいわい」 「マイヤー|教師《せんせい》はどうした?」 「ここだよ……」  答えの主は、ドアがけし飛んだ出入口のところにぺたりと座り込み、荒い息をついていた。頬にすり傷がいくつかある。後頭部に手をあてているところを見ると、そっちの方が重傷そうだ。 「少なくとも、これで私とリナの疑いは晴れましたね」とつぶやき、それからクオレを見て眼を丸くする。そこへ自警団の三人もふらふらとやってきて、何やら騒然としだした部屋の中で、何事もなかったようにつぶやくDの声がきこえた。 「これでようやく振り出しか」 [#改ページ] 第三章 闇がのぞみしもの  白い陽差しが斜面の薄雪をほとんど溶かし終え、冬を忍んだ若葉は頭をもたげて、来るべき季節に芽吹くべくエネルギーの吸収にいそしんでいた。  なだらかなカーブはもう緑に彩られ、遠目には、吹きすぎる風にコートの裾をなびかせて歩む美青年の姿を青空に浮かび上がらせて、一枚の風景画をつくっているように見える。  しかし、一歩近寄れば、黒ずくめの長身からみなぎる名状し難い鬼気に全身を打たれて、眼前の美の結晶が、その美しさにふさわしい異世界の存在だと思い知るだろう。  吸血鬼ハンターD——春といわず夏といわず、非情の瞳に妖魔の闇を映す男であった。  中腹で、Dは足を止めた。  村の方角から馬車がやってくる。黒髪を長く引いているのはリナであった。Dが自分を認めたと知り、満面に笑みを浮かべて手をふる。  手こそふり返さなかったものの、馬車を停めたリナが、青いロング・スカートの裾をはしょりながらかたわらに登ってくるまで待っているとは、およそこの若者らしくない。人間、というより生き物誰しも苦手はあるらしい。 「何しに来た?」と仏頂面で訊く。 「あら、冷たいのね。あたしもそれを訊きにきたのよ。でもご一緒するわ。せっかく待っててくれたんだし」  荒い息をつきながら、リナの口元には屈託のない笑みが浮かんでいる。  身の毛もよだつ美青年というだけではなく、少女はこの青年のかたわらにいると楽しい——というより面白いのであった。彼の存在感ともいうべき鬼気は凄まじいが、慣れてしまえば、実に興味深い若者であった。辺境の荒くれ者すらその名をきいただけですくみ上がるハンターの実力など知ったことではない。十七歳——年頃の少女から見れば同い歳の男などまるで餓鬼だというが、リナはDをそんな眼で見ているのかもしれなかった。だが、外見はともかく、不老不死たる貴族の血を引くハンターを、果たして何歳と言えばよいものか。 「待ってたわけじゃない」Dは冷たく言った。「帰れというつもりだったんだ。——帰りたまえ」 「やです」とリナは唇を突き出した。「村にいるより、あなたといた方がぜーったい安全だもの」  そりゃそうである。 「好きにしろ」  Dは無言できびすを返した。前と変わらぬ悠然たる足取りなのに、いくら早足で追いかけてもちっともその差が縮まらず、頂上へ辿り着いたとき、リナは城壁の陰にへたり込んでしまった。冷たいことに、Dは後をも見ずにさっさと廃墟へ入り込み、もう気配さえ感じられない。 「んもう! 冷たいんだから!」  と地団駄を踏んだ拍子に、胸元から白いものが地に墜ちた。あわてて拾い上げ、そっとやさしく土を落としてブラウスの胸へしまう。それから、 「こら薄情もの」  とひとつ叫んで、汗を拭きながら城壁の破れ目をくぐった。  かつて権勢を誇った貴族たちの城も、主人たちが原因不明の理由から姿を消すと、そのほとんどは朽ちるにまかされ、近づく人間たちもないまま、植物や鼠たちに蹂躙される。多くの場合、貴族たちは、ほぼ永久に城の現状を保てる維持機構や電子防御メカニズムのエネルギー供給を断って闇へと消えるからであった。その行為に含まれる意味は、いまだ人間の手の触れるものではなかった。  そう考えてこの廃墟を見ると、なんとも奇妙な荒々しさ、徹底した破壊への意志に背筋が凍りつく思いがする。  城壁はもとより|居城《パレス》、門塔、礼拝堂にいたる主要建築物は軒並み土台から吹き飛ばされ、かろうじて残った|長塔《ベルクフリート》でさえ上半分を失った無惨な姿で蒼穹をにらみつけている。材質もよくわからぬ建造物の残骸や石くれが、まだ雪を留めたままかろうじて原形を保った中庭にも散らばり、リナの歩みを遅らせてしまうのだった。  城の惨状がいつ誰の手によるものか、無論リナにはわからない。すべては暗い歴史のベールで覆い隠され、人間たちの生活には未知の恐怖の触手でしか関わろうとしない。  中でもこの廃墟の素姓は異様であった。何ひとつ不明なのである。  辺境地区にも数多くの城が建てられているが、すべては人間たちの統治を目的とし、彼らの生活を足下に見下ろす高台に君臨するのが常だ。したがって、どのような形であれ、その存在や居住者についての物語は人々の口から口へと流布し伝承されざるを得ない。ここには、それがなかった。  雪と闇に閉ざされた谷間で、いかなる生活と作業が営まれていたのか、村人たちは努めて考えぬようにしていた。  Dは初めて出会った|広間《ホール》の闇の中にいた。壁のものを静かに見つめるその姿に、リナは、あれから蒼い時の流れが停止しているような気がした。 「お気に入りの絵があって?」  と声をかけながら近づく。いくら呼んでも返事ひとつしなかったDがふり向いたので、やっと少し気分が収まった。 「そうか——君は普通に登れるんだったな。よく来るのか、ここへ?」 「ええ」と澄ましてうなずく。「これでも、このお城にかけちゃ村一番の物知りよ。ね、ね。何しに来たのか知らないけど、一緒に鑑賞しましょうよ」  Dは少しのあいだ無邪気に笑う少女の顔を見つめ、うなずいた。  そして、ふたりは壁面を埋めたおびただしい絵画の一枚一枚に眼を通していった。  残っていること自体が不思議な絵を見ているうちに、ただ黙って見ているだけで、リナは初めてこれを眼にした時の感動が熱く胸を濡らすのを感じた。  月光淡い森陰を、半透明の羽根のような飛行装置をつけて滑る恋人たち。  霧深い湖畔で、月のように輝く玉を追いつつ笑いさざめく白い貴婦人。  暗雲渦巻く天空に雷光を浴びながら、奇怪な生物の引く反重力馬車を駆る黒ずくめの貴族。  一角獣の角は月光を跳ね返し、虹色の踊り子たちが撒き散らす花びらに、大地は夜光草の園となり、海の泡から生まれる朱色のヴィーナス、影と光、光と影の交響曲…… 「これ、みんな貴族たちが描いたのよね」  リナは自分の声が誰にきかせるともなく、歌うように口をつくのを感じた。 「舞台はすべて闇と暗黒、夜の月光と霧——なのに、どうしてこんなに美しく見えるのかしら。一歩村の外へ出たら、もう怖くて怖くてすくんじゃう世界を、この人たちはどうしてこんなにやさしく、夢みたいに描けるんだろう。貴族の人たちの夜は、私たちの夜と別のものなんだろうか」  Dは無言で少女を見つめていた。無邪気さのベールを剥ぎ取り、知的好奇心をいっぱいにためてきらめく大きな瞳を。『都』で未来を学ぶ十七歳の少女を。 「私たち、小さな頃から、貴族の怖さ恐ろしさをきいて育った」とリナは、そばに立つDのことも忘れて続けた。「文明って、その担い手にふさわしいものしか生み出せない。だから邪悪な貴族は滅んだんだって。それなのに、私はこの絵を見て胸が震えるの。初めて見たとき、こういうものが描けるなら貴族になってもいいとさえ思ったわ。それから、ひとりでこっそり勉強したの。私と一緒に行方不明になった、ほら、マイヤー先生も貴族に興味を持って、いろんな文献を集めてたから——この頃は、数学だけやれって貸してくれなくなったけど——何冊も借りてね。大概は、人間が貴族について記したものばかりで、村の大人たちとおんなじ見方しかしてなかったけれど、中に一冊、貴族の歴史について書いた本があったのよ。ええと、確か……」 「J・サングスターの『貴族の暁』だ。出版と同時に禁書指定され、著者は辺境へ追放された」 「よく知ってる。それよ!」  放浪のハンターが持つ意外な知識に驚くより、話の継ぎ穂が見つかったことで、リナは派手に指を鳴らした。 「確か、貴族の残した絵画やホログラフィ映像、立体音楽なんかを研究して、彼らの文明の持つ長所に光をあてていたわね。私、ぼろぼろになるまで読んだ。もうひとつの世界、夜の文明、そして、貴族たちのことを学びたいと思ったの。彼らの持ってた知識と美のことを。それと——」  ここで我に返ったように言葉を切り、少女はDを向き直った。 「私、『都』で数学を学ぶことになってるの。でも、ほんとうは貴族の歴史をやりたいのよ」  しばらくの間、ふたりは互いの顔を見つめ合ったまま闇の重さを味わっていた。  ふっとリナが笑って「冗談よ」と言った。 「勉強したいのはほんとだけど、選抜されたものは、『都』から来る審査官の前で、何を学びたいかはっきり宣言しなくちゃならないのね。数学、物理学、音楽、美術——体操だってOKだけど、貴族の歴史なんて言ったら——」  それは、リナの未来が永遠に失われることを意味していた。恐怖の重圧に虐げられたものの血で刻まれた歴史は、虐げたものの全存在を許そうとしない。 「だが」とDが口を切った。「『都』の方針も徐々に変わっているときく。教育担当長官は、貴族の遺産に理解ある男だそうだが」 「やーですよーだ」  リナは悪戯っぽく笑って、蝶みたいにDの背後にまわった。 「せっかくの村を出る機会、失いたくないわ。最終決定は審査官の胸三寸だもんね。私、『数学です』って言うわよ、絶対」  Dは答えず、数メートル離れたところにある一枚の絵に顔を向けた。  リナも気にしていた絵であった。残された絵画の中でこれ一枚だけが、縦三メートル・横二メートルにも及ぶ全体を真っ黒に塗りつぶされているのだ。それにはひどく惨酷な意図が感じられた。 「旅をしている間に何回か見た覚えがある。何万枚もの絵画、何十万個もの美術品の中に、時折こういう異物が混じるのだ。あるものは完膚なきまでに破壊され、あるものは焼かれる。そんな中に一枚だけ、修復された絵があった」  この若者が自分の経験談を話すなど前代未聞を通り越して奇蹟に近いということも知らず、リナは眼を輝かせた。 「教えて。どんな絵だったの?」 「棺から起き上がった貴族たちが、太陽に手を伸ばしているところだ」  それは、この上なく虚しい夢であった。  誰が描いたんだろうとリナは思った。  誰が描いて、誰が壊して、誰が修復したんだろう。この眼の前の絵も、そんな一枚なんだろうか。貴族は私たちになりたかったんだろうか。  答えはなかった。  いつの間にかスカートの裾がはためいている。風が出ていた。 「どうしてそんな話をするの、D?」  リナは静かに訊いた。 「あなた、私のこと変わってるって言ったけど、私がそうならあなたは気違いよ。何を訊いても答えてはくれないでしょうけど、よかったら、ひとつだけきかせて。吸血鬼ハンターさん、初めて会ったときも、ここで絵を見てたんでしょ。あなたは貴族を本当に┬憎んでいるの┴?」  Dは背後の闇をすかした。 「予定外の時間を食いすぎた。本業に戻らなくてはな。君は外で待て」 「いやよ、ここまで来て。絶対ついてく」 「何が起こっても助けんぞ」 「いいえ。あなたは助けてくれます。私は助手なんだから」 「おい、勝手に決めるな」  なんと、Dはあわてていた。リナは奇蹟を起こす名人であった。 「差し当たって、なぜこの廃墟へ来たのか教えてちょうだい、ボス」と真顔で言う。Dはため息をついた。またもや、小娘のペースに巻き込まれているではないか。 「十年前、ここで何があったかを知るためだ」 「やっぱりね」とリナは重い心でうなずいた。 「どう見ても、あたしたちおかしいものね。貴族が昼間動けるはずないし、クオレはあんなふうだしね」  今朝意識を取り戻したクオレは、体力の消耗が著しく、治安官と村長の訊問にもまるで答えられなかったのである。  昨夜の事件のとき、偶然現場に居合わせたとはとても信じ難い。誰かにきいたにしても、女の襲撃事件は発見者の子供以下、事情を知る全員に口止めしてあり、第一、彼は青年団全員の捜索の的だったのである。あの家の周囲も調べ尽くされていたのは言うまでもない。それにあの気獣というべき存在は、リナの知らぬことだが、あと一回、クオレのいる場所に出現していたのだ。 「今でも私たち疑われてるわ。私とクオレがこの丘を┬普通に┴登れるのはみんな知ってるし、きっとマイヤー先生も大丈夫なはずよ。昼歩く貴族は私たちのことじゃないのかって、村の青年団に三人揃って襲われたこともあるわ」 「よく無事だったな」 「村長のおかげよ。あれでやっぱり村一番の権力者なの。『都』から物資を調達するのもうまいし、妖魔への対抗策もよく心得てるわ。彼がいなかったら、とっくの昔に村は存在しなかったはず。——私はその方がよかったと思うけど」  激しい口調に気づいてか、リナはうつむいた。村長は彼女の養父である。 「その彼も、私たちが事件と無関係であることは証明できなかったわ。過去の事件のとき、私たちのそばには誰もいなかったのよ」  その事実は、村長から昨夜渡されたリストとともに、Dの記憶に収まっていた。  マイヤー教師はひとり暮らし、クオレは村の廃屋にやはりひとりで住み、リナは陽が落ちるとすぐ自室に篭ってしまう習慣であった。  いかに村長の強制があったにせよ、そんな三人が無事でいられたのは、あの事件から十年近い歳月が流れていたおかげであった。 「君は┬丘に登れた┴。他に変わったことはないか」  とDは右手を顔の前にかざしながら訊いた。  風の流れを測っているような奇妙な動作をいぶかしみながら、リナは首をふった。正直な答えであった。  Dはうなずき「こっちだな」と言った。リナの返事に対してうなずいたのかどうかはわからない。  素早く斜め前方の闇へと進んだ。すぐにふたりの前へ精緻な彫刻のドアが姿を現した。その存在を知ってはいても、リナが入ったことはない。好奇心が恐怖を抑えるにはまだ歳の足りぬ娘であった。  また帰れと言われるのではないかと用心したが、Dはさっさと扉を押しあけ、さらに濃い闇の中に溶け込んだ。あわてて後を追い、扉に手をかけてリナは愕然とした。それは、十センチもの厚みを誇る超合金だったのだ。大の男が二十人かかっても動かせるかどうか。すでに闇と同化した若者に、このとき初めてリナは不気味なものを感じた。  何か想像もつかない世界の闇に呑み込まれそうな恐怖に首筋を凍りつかせながら、一歩を踏み出す。  森は生命に溢れていた。葉を落とした樹々の発するオーラが光にこもり、ベス・ファーンの肺から全身にわたって足取りと気分を軽くした。  小道をはずれ、しばらく行くと、空気が急に湿りけを帯びた。冬だというのに、妙に生暖かい森の一角であった。冷気の厳しさはなく、樹々の肌にも青や緑、紫をはじめとする吐き気を催しそうな色彩の苔や菌類がこびりついている。  ベスは滑らぬよう注意しいしいその奥へ入り、やがて一本の巨木の根元にひざまずいた。  ここ一日二日、ひとりで外出してはいけないと治安官のオフィスから放送があったのは、彼女が家を出てからであった。  ふっくらした童顔に笑みが溢れる。計算通り、三日前採り尽くしたはずの食用苔がびっしりと、蛇みたいな根のあいだを埋めていた。誰かに採られやしないかと夜も眠れなかったのだが、来た甲斐はあった。  辺境の村々にとって貴重な代用食となるこの苔は、ステーキからスープ、ジャムとほぼ万能の調理がきくし、日なたにさらしておいても半年や一年はへっちゃらで保つ。おまけに遠心分離器を使って採集したエキスを塗れば傷口はたちまち塞がる、|毒蛾人間《モス・マン》の毒は脱けるという調法さで、旅人や巡回吏になくてはならぬ品であった。  ベスはこれと引き替えに、春先訪れてくる商人から『都』で流行中の服を買い入れるつもりであった。十七歳の瞳にそれを着た自分の姿が映っている。  用意したシャベルを慎重に土と苔の接触面に滑り込ませ、脆い表面を崩さぬよう篭に入れる。十分も続けると口まで溢れた。  まだ大分残っている。父親の飼っている┬あれ┴も苔には眼がないはずだ。  もうひと山——と伸ばしかけた手が中途で止まった。陽が翳ったのだ。いや、ベスの身体を隠し、苔の上に黒々と落ちたものは明らかに人の影であった。  ふり向いた刹那に放った絶叫が、十七歳で失われる生命の最後の|抗《あらが》いだった。  |木梢《こずえ》に反響しながら漂ってくる叫びを、サイラス・ファーンは即座に娘のものと判別した。治安官の放送をきいてすぐ、娘が外出したのを知り、いつも口にしていた苔の森だろうと追ってきたのである。絶望と怒りに全身がわなないた。  娘の名を呼びつつ疾走しながら、両腰に提げた中くらいのバスケットの蓋に手をかけ、ストラップをはずす。中の┬もの┴の動きが一層激しくなり、┬右側┴の隙間から低いが凶暴な唸りが洩れた。  突然、左側の口元で紫の火花が走り、ファーンはわっと手を放した。慣れているつもりでも、こいつは扱いづらい。左手にはめた非電導手袋の先が焦げ、青い煙がちぎれて飛んだ。  目的地に駆け込んだ途端、ファーンの瞳がかっと見開かれた。  灰色をした布の化け物に抱きすくめられ、がっくりと天をあおいでいるベスの喉首から二筋の血潮が流れ、その肌は白蝋に変わりつつあった。  絶望が憤怒と化して全身を貫き、彼は娘を救出する可能性も忘れてバスケットの蓋を跳ね上げた。  灰色の影がこちらを向いた。  どっと苔の真ん中に落ちるベスの身体の響きと同時に、奇怪なものが地面に降り立った。  それらを二つと呼ぶべきか、二頭、二匹と言うべきか。  飼い主の憤怒に支えられ、灰色の影を見すえたのは、地を踏みしめた八本の脚の長さが優に三メートルを越す巨大な蜘蛛と、紫に光る、こちらは別の┬雲┴であった。  ファーンの職業を知れば、誰しもその娘に手を出したことを後悔するだろう。長旅を行くものが、途上、貴族たちの放った人工妖魔や残虐無頼な盗賊たちから身を守るべく、彼らと等しいパワーを持つ魔生物——「|護衛獣《ガード・ビースト》」を購入することは半ば常識化している。自警団長は、その販売人兼調教師なのであった。  大もとは貴族の放った妖魔妖獣を祖先とするのだが、世代交代が進むにつれ、新種、奇種が多数発生し、二千年ほど前からごくまれに人間にも飼育可能なものが出現しだしたのだ。飼育・調教の方法は、ある種の音波と呪文を使うという以外厳重に伏せられ、一般人には窺い知ることも不可能とされている。  しかしまた、なんという魔物たちであることか。  こんな大蜘蛛が鳥篭ほどのバスケットに収まっていたことも不可思議ならば、隣の紫の雲はもっと異様だ。雲の内部から湧き上がる雲煙は直径五十センチほどの外周を形成し、その中心部が何やら光を放つたびに、雲のあちこちから紫色のスパークが飛ぶ。  この世で最も怪異な生命体——電気獣であった。 「*☆◎■!」  ファーンが奇怪な音声を発した。攻撃を命ずる叱咤である。  蜘蛛がその体型からは信じ難い速度で前進し、光る雲が宙に浮く。  灰色の影はわずかに身を沈めた。  銀光が一閃し、紫の火花がほうせんかのように散って森の一角に明暗が交錯した。  蜘蛛の脚が第二関節部から切断されて宙に飛ぶ。  灰色の影は、長刀の一撃で迫り来る大蜘蛛の脚を薙ぎ払うと同時に、雲の電撃を片袖で受け止めたのである。  見守るファーンの顔が驚きに満ちた。雲のスパークは五〇万ボルトにも達する電圧を秘めていたのである。  長刀が反転し、電気獣の二撃三撃めを跳ね返して本体に迫る。影の袖は火を噴いていた。  その切っ先がすっと止まった。  影が力を込めたが、刃は盤石の重みに|圧《お》しひしがれたように微動だもしなかった。  武器を捨てて地を蹴り、三メートルも跳躍した影の頭上から、ひらひらと白い糸みたいなものが降りかかり、彼を空中に固定した。  影のふりあおぐ頭上に、地に伏したはずの蜘蛛がいた。いや、尻からではなく巨大な顎の隙間から糸を噴いているところを見ると、蜘蛛に似た突然変異体だったかもしれない。その糸——粘液の凄まじい粘着力は、本物の蜘蛛の糸よりも細いそれ一本で、巨木の大枝から蜘蛛本体を支え、その下に影の巨体を楽に吊るしたどころか、じりじりと恐怖の大顎めがけて引き上げ出したことでもわかるだろう。  もうあきらめたのか、じっと動かぬ影の身体に紫の稲妻が幾本も突き刺さり、炎と黒煙を噴き上げた。 「ざまあみろ、化け物め。吸血鬼の生き残りめ。電撃に焼かれてもだえろ、蜘蛛の大顎に噛み砕かれて死ね」  ファーンの憎悪に満ちた哄笑が地上から|木魂《こだま》した。 「いや、その前に、てめえの顔を見てやろう。一体誰だ? クオレかリナか教師のマイヤーか、それとも——」  もう一本の糸が影の顔を覆ったマスクにかかり、器用に引き上げた。 「お、おめえは——!?」  驚愕の叫びが途中でやんだのは、素顔の真ん中にかがやく真紅の光芒を見たためか、あまりの驚きに驚き自体が呑まれたのか。それとも、背後から氷のように冷たい手が、そっと両肩を押さえたためか。 「とうさあん」  首筋を娘の声と牙が這った。  ひとつの結末を、このとき、少し離れた巨木の陰で見つめているものがいた。いつベッドから脱け出してきたのか、げっそりとやつれた顔に澱んだ眼ばかりをぎらつかせ、悲鳴を必死でこらえているようなクオレであった。  闇に眼が慣れると、幅広い回廊を下っているのだと知れた。四方は石づくりの壁と天井だが、不思議と重圧感に乏しい。その外側にかなりの広がりを感じさせる道行きであった。  壁や天井のところどころに、侵入者探知センサーや放射能遮断機構らしき光沢がうかがえる。 「ねえ、こんなに大きな地下室が残っていたなんて信じられないわ。もう地下百メートルは来たんじゃない?」  数歩先を行くDに、リナがうんざりしたように訊いた。三〇分は続いたと思われる単調な歩みに退屈しきっている。 「十メートルも下りていない」 「うっそおー!」 「安心するがいい。じき終着駅だ」  言葉通り、一分とたたぬうちに、ふたりはスチール製とおぼしいシャッターの前に出た。  Dが胸のペンダントをコンピューター識別装置に向ける。  空間に呑み込まれるようにシャッターが消え、ふたりは|内側《なか》へ入った。  青いたそがれに包まれているような静けさが迎えた。  リナの口がぽかんと|開《あ》く。  そこは巨大な実験室と見えたが、これほどアンバランスな真理追究の場もふたつとあるまい。  四囲は廊下同様、巨大な石塊を十メートル近い高さまで積み上げた大城壁、床に並ぶデスクもごつい木製、それを飾り立てるフラスコやビーカー、奇態な色の液体が詰まった薬瓶——まるで中世錬金術師のラボそのもので、たしかにそれにふさわしい妖気みたいなものがあちこちから立ち昇り、青い光と入り混じって何とも形容しがたい雰囲気をつくりだしている。しかし、それら古風な器具の間に端然と居住まいを正しているのは、まぎれもなく、陽電子頭脳、エレクトロ・アナライザー、物質変換装置といった超科学技術の結晶だ。貴族たちを貴族たらしめている|二律背反《アンビバレント》の世界がここにあった。 「こんなところが残ってたのね」とリナが周囲を見回しながら言った。「ここは何かの研究所だったらしいわね。D、何を研究してたかわかる?」  返事がないのでふり返ると、Dは近くの実験台の前で、その上を埋め尽くしたフラスコや奇妙な球体をじっと眺めていたが、すぐ、かたわらのコンソール・パネルに近寄り、おびただしい数のキイに手を滑らせ始めた。 「あなた、コンピューターも……」  リナの言葉が終わらぬうちに、空気が唸り、部屋のあちこちで機械が息を吹き返し始めた。  コンピューターのスクリーンに、リナには見当もつかぬ難解な記号や数式、果ては奇々怪々な図柄が乱れ飛ぶのを、Dは時間にしてほんの数秒じっと見つめていたが、すぐにスイッチを切ると、リナには眼もくれずさっさと広大な部屋を横切り始めた。 「待ってよ、もう。冷たいんだから。助手を放っとく手はないでしょ!」  とあわてて追いかけた途端、足を滑らせ、ぎゃっとしがみついたのが半ば液体を満たしたビーカーの支台で、派手な音と破片を撒き散らしながらリナは床に転倒した。 「いたた……」  頭を打たなかったのがせめてもの救いだが、激痛の走るお尻をさすりながら、やむを得んというふうに戻ってくるDを心底恨みがましい眼でにらんだ。  と、その眼が急に細まった。  見よ。床に触手を広げた液体同士が混じり合い、その接触面から、霧とも煙ともつかぬ不可解な色の壁が立ち昇ってくるではないか。いや、あろうことか、その煙の奥で何やら|蠢《うごめ》いている。もがいている。恨むように、呪うように。  だし抜けに煙を突き破って現れた棒状のものに足首を掴まれ、リナは絶叫した。  それは、赤黒い腱や血管を表面に張り巡らせ、得体の知れぬ粘液で濡れそぼった赤ん坊大の腕であった。それには三本の指しかなかった。  夢中でふり放すと、指は虚しく空を掴み、力なく床に折れた。  煙と同じ色に変わり液化するそれを茫然と見つめるうちに、Dが腕を掴んで軽々と立たせてくれた。 「ホムンクルス——稲妻とエーテル体から生まれた人造生命だ」 「な、な、なんであんなものがあるのよ。ここは一体何を——?」 「来たまえ。このくらいで驚くようではもう帰った方がいいが、今さら遅いか」 「誰が帰るもんですか」  Dは冷静に周囲を見回していたが、唐突に、 「君たちの他にもうひとり連れさられた子がいたと言ったな。ここで何があったか、覚えていないか?」 「いいえ。これまで何百回も思い出そうとしてみたわ。私も先生も、クオレだって」 「クオレも?」  リナはDを見上げた。頭ひとつ分高い。この少女のどこに潜んでいたのかと思われる凄惨な顔であった。 「戻ってすぐ、私たち親から離されて収容所へ入れられたの。丸一週間、治安官や自警団に調べられたわ。薬、催眠術、それでも駄目だとわかると、裸に剥かれて針を刺された。この村独特の貴族発見法よ。乳首やお尻に銀の針を入れて、血の出方で貴族の仲間かどうか占うの」 「………」 「普通、女の場合は自警団の婦人がやるんだけど、私を調べたのは男ばかりだったわ。入れ代わり立ち代わり、刺すたびに人が代わるの。水車小屋のガストン爺さんもいたし、屠殺場の子供も、村長もいたわ。彼が私を養子にしたのはせめてもの罪滅ぼしかしらね」  突然、リナはにっこり笑ってDの顔へ人差し指を突きつけた。 「やだ。そんな怖い顔しないでよ。私、忘れっぽい方なんだから。あなたの顔見てると、恨みつらみを想い出すじゃない。たまには笑ってごらんなさいな」 「これは生まれつきだ」 「あら、初めて自分のことしゃべったわね。ふふ、私に同情した? らしくないわよお」 「君には敵わん」  Dがそう言ったとき、部屋に満ちていた青い光がすうと消えた。誰かの仕業だ! ——と思う間もなく、リナは背後から強い力で抱きすくめられ、壁の方へぐいぐいと引っぱられていった。 「D!」  叫んだ口を、妙に粘っこくて冷たい掌のようなものが塞いだが、視界を銀色の光が走ったと見えた刹那、ドボッと骨を断つような音がして、縛めは解けた。  耳を覆いたくなるような悲鳴が巻き起こり、Dの長剣が宙を薙ぐたびに、何かが断たれ、地に墜ちる音が連続した。  ようやく、リナは得体の知れぬ存在に包囲されているのに気がついた。  どす黒い想像が胸を締めつける。さっきの感触は疑いなく人間の手だ。すると、すると——タジールだろうか。だが、闇の中の数は絶対にひとりじゃない。  リナは夢中で幼い頃のタジールを想い出そうと記憶を探った。  花を摘むなんてつまらねえよと言いながら、リナよりも器用に首飾りをつくり、不貞腐った風に手渡してくれた浅黒い顔。リナの家の屋根が大風で吹っ飛んだとき、釘と電子熔接器片手に駆けつけ、半日がかりで直してくれたのも彼だった。この子、あたしのことが——と七つの少女が小さな胸に誇りと自負を抱いたのも当然であったろう。彼の失踪を悲しんだのは両親よりもリナであった。 「やめて、D! やめて!」  その叫びを待っていたかのように、青い光がリナの影を石の床に落とした。  数歩先でDが長剣をしまうところだった。予期したような異形の影は見えないかわりに、赤黒い液体が石の床に重く広がっていた。血だ。目をこらすと、何本もの赤い糸が部屋の隅にある石壁の方角へ走っている。思わず駆け寄って言った。 「今のは何? 正体を見たんでしょ、D?」  Dは答えず、問題の石壁に視線を固定させたままつぶやいた。 「ひとりではなかったのか」 「どういう意味?」 「答えはあの石壁の奥にある。もうひと押しするのもいいが、何かがいるとわかった以上、今日は帰った方が無難だろう。手を切り落とされても、血だけを残して持ち去る┬奴ら┴だ」 「何なのよ、一体——まさかタジール……」  答えはなく、相も変わらず冷たく身を翻してシャッターの方へ向かうDを尻目に、リナは恐れよりも不思議な感慨に打たれて、壁の一角へ眼を向けつづけていた。  ひと言も交わさず、ふたりは丘の麓まで下りた。  たったいま奇怪な怪物たちと遭遇したばかりだというのに動揺の翳もない美しい横顔を、リナは怖いものを見るように盗み見た。  訊きたいことは山ほどあった。  やすやすと地下の実験室を探し当てた理由。そこで気づいたもの。あの怪物たちの正体。タジールの行方。そして何よりも、十年前あそこで自分たちの身に起こった出来事。  そのすべてに対する好奇心が、若い吸血鬼ハンターの凄愴ともいえる横顔を眺めているうちに水泡のように溶け去り、熱いものが胸を塞ぐのだった。  自分は本当に十年前の影に光をあてようとDに従っているのだろうか。 「おれは村を回ってみる」  不意にDが言った。気がつくとリナは馬車のそばに立っていた。少し離れたところでDの馬が無心に青草を食んでいる。 「じゃあ、私も一緒に——」  反射的に言いかけたリナの胸を失望が叩いた。 「ここで別れる。今後一切、仕事の邪魔はしないでもらおう」  表情も口調も普段と変わらないが、秋霜のごとき厳しさをリナは感じ取った。嫌、と反射的に言いかけ、声は喉の奥で消えた。 「学校へ行くのも家へ帰るのもいいが、寄り道はするな。知り合いでも油断しないことだ」  Dの声は馬上からした。  ふんだ、意地悪。人の気も知らないで。  ぷいっとふくれ面をしようとして、頬がこわばった。何か言い返そうとして、声は出なかった。情けないことに眼頭が熱くなった。やだ、朝っぱらから泣くなんて。  このとき、不意に空気が緊張した。Dの放散する鬼気のせいである。全身の毛穴が隆起していくのがわかる。何があったのと訊くこともできぬその凄絶さに、リナはDの見る方角へ顔を向けるしかなかった。  村へ続く小道を一頭のサイボーグ馬がやってくる。見馴れた栗毛と胴体下部の10型エネルギー・タンクは治安官の持ち馬だ。全力疾走で近づき、草を蹴散らして止まった。 「やはりここか。一緒に来てくれ」  治安官の顔と声に焦燥がこもっていた。 「どうして、おれたちの居場所がわかった?」  Dが静かに訊く。 「リナの馬車が丘へ向かうのを見た農夫がいるんだ。——クオレが逃げたぞ」 「見張りを頼んでおいたはずだ」  Dの視線から治安官は眼をそらして、 「自警団のひとりが眠り込んだところをつかれた。仕方があるまい。彼は生身の人間だ」 「貴族に襲われたときそう言えば、恐れ入って退散するかもしれんぞ」  痛烈な皮肉に治安官は沈黙した。 「何処へ行った?」とD。 「わからん。だが、早く見つけないと|私刑《リンチ》にかけられる恐れがある。自警団の連中、昨夜の現場にクオレがいたことで、犯人ではないにしても仲間のひとりだと思っているからな。クオレの棲んでいるところも覗いてみたが、戻っちゃいないようだ。となると森だな。おれは北の森を探す。君は南をあたってくれ」  答えもせずDは馬首を巡らせた。村の地理は昨日村長からもらった地図を一度眺めたきりなのに。 「早く戻れ」疾走に移る寸前、立ちすくむリナに向かって言った。「君は『都』へ行かねばならん」  え? と少女が顔を上げたとき、Dは風と陽差しを切り裂いて走った。  あわてて治安官が追う。  追いながら驚愕の眼を見張った。ぐんぐん距離が離されてしまう。馬のせいではない。商売柄、他所ものの馬にはすぐ眼がいくのが治安官だ。その┬性能┴を頭に叩き込んでおけば、追いかける場合の作戦が立てやすい。Dの馬はどこの村でも手に入る平凡なスタンダード・タイプだった。チューンナップしても、治安官のカスタム・グレードには時速で三キロ、耐久力で二〇パーセントがところ及ばないはずだ。——それなのに。  ——こいつ、魔法でも使うのか。ダンピールだとはきいていたが?  ようやく噂のみ耳にする吸血鬼ハンターの不気味な実力が身に沁み始めた。  治安官を遥かに引き離して、Dは南の森へ入った。馬を止め、眼を閉じる。少しして馬首を右横の木立に向けた。風の言葉をきいたのか、空気にこもる「気」を読み取ったのか。  一分とたたぬうちに、森の奥へと続く小路の上で、おかしな顔つきの自警団どもと遭遇した。 「危ねえ!」 「わわっ!」  跳びのいた男たちは、全力疾走から瞬時に停止したDの手綱さばきに眼を見張った。 「クオレはどうした?」  静かとさえ言える声に、十人近い粗暴な男たちが、白い陽差しに縫いつけられたかのように凍りついた。  Dの眼が先頭のリーダー格らしい男を射る。昨夜、騒ぎの場にいたひとりだ。 「——ぶ、無事だ。おれたちゃ何もしてねえよ。そりゃ、ちょっと可愛がってやろうと思ったが、見つけたところへ、ファーンさんが来てよ」 「ファーン? 奴もクオレを探していたのか?」  男はあわてて首をふった。  ファーンとは無関係にクオレ捜索に出掛け、森の奥でぼんやり突っ立っているのを見つけた。何が何でも知ってることを喋らそうと取り囲み、脅しにかかるところへファーンが来た。いつもなら先頭に立って鞭でも振るいかねない荒っぽい男が、どうした風の吹き回しかクオレをかばい、おれの家で預かると連れ去ったという。男たちの顔に浮かんでいた困惑はそのせいであった。 「ファーンの他に誰かいたか?」 「いや」 「別れたのはいつだ? クオレを見つけた場所は?」  男は背後を指差した。 「真っすぐ行きゃわかる。苔だらけの土地があって、みんなの足跡がついてるはずだ。まだ十分とたってねえ」  男の声に鉄蹄の響きが入り混じった。  Dはまずファーンの家のある方角へ向かった。五分もしないうちに、縦に切った丸太を地面にかぶせたような建物が眼についた。“|護衛獣《ガード・ビースト》”の飼育場である。周囲を木の柵が取り囲み、おかしな格好をした門の前に二つの人影が立っていた。言うまでもなくクオレとファーンである。 「何の用だかね?」  Dの急停止に驚きの表情を見せながらファーンが尋ねた。 「森へ何をしに行った?」  馬上からDが訊く。ファーンはにやりと笑って両腰のバスケットに手を置き、 「おれの商売を知らねえな。|護衛獣《ガード・ビースト》の餌になる茸や虫を採りに出たんだ。何のつもりでそんなことを訊くのか知らんが、ここにも二匹いる。本当かどうか尋ねてみるかね?」  このとき、ファーンはDと自分とのあいだに一瞬、白い光が流れたような気がして眼をしばたたいた。  Dは挑発を無視した。 「その子を返してもらおう」 「ほお。こりゃ面白いことをおっしゃる。おれが盗っ人みたいな言い方だが、どこの馬の骨ともわからねえハンター風情と一緒に行くよりは、おれん|家《ち》の方がいいとよ。女手もあるし、まともな暮らしを覚えるのも悪くあるめえ」 「急に隣人愛に眼醒めたか」Dの周囲に鬼気が凝集した。静かな声が|刃《やいば》の鋭さを孕んで、「森で何があった?」  ファーンは沈黙した。いかつい顔に殺気がみなぎり、節くれだった指がバスケットの錠に伸びる。Dは動かない。身動きのとれぬ馬上で、二匹の凶獣をどう迎え討つのか。  凄惨な殺気を大きな影が寸断した。  クオレがDの前に立ち塞がったのである。訴えるような眼差しで首をふり、門を指差す。  行きたいというのか。  わずかに遅れて、Dは馬首を巡らせた。 「もうお帰りかね? 今度来るときゃ、その┬生くら┴を抜いてきた方がいいぜ。こちとら、おっかねえ“商品”が揃ってるんだ。こんな風になあ!」  自信に満ちた声が途切れた。バスケットの蓋は開かなかったのである。細い白木の針が蓋と本体を縫いつけていると知り、蒼白と化して見上げた顔面に蹄の哄笑が叩きつけられた。  そのまま馬を飛ばして戻り、瘴気の立ち込める湿地帯でDは馬を降りた。自警団の男の言葉通り、幾つもの足跡が入り乱れている。クオレと彼らが遭遇した場所、いや、その少し前に、ファーン父娘が吸血鬼の毒牙にかけられた場所である。  不愉快な熱気もこの若者を恐れるのか、Dは顔ひとつしかめず極彩色の国に足を踏み入れた。 「面白いことになってきたの」  軽く握った左手から邪悪な声が漂ってきた。 「何がだ?」 「あのファーンとかいう男、どうも様子がおかしい。それにあの餓鬼も餓鬼じゃ。なんで奴と一緒に行くことを┬好んだ┴のか。自分を虐待した親玉ではないかの。——どうじゃ、おまえはもう何か掴んだと見えるが」 「あの子は本心から行きたがっていた」珍しくDの声に揶揄する調子が入った。「後はおれの腹を読んでみろ。それより、体調が戻ったなら協力してもらおうか」  声は嘲笑を放った。 「まだ完治にはほど遠いて。もう二、三日、ゆっくり養生させてもらおうかな。そのときになったら、ひとつ面白い話をきかせてくれる」 「ほう。楽しみにしていよう」  足を止め、Dは会話を断ち切った。|奇《く》しくも、ファーンの娘が灰色の影に襲われた地点である。  Dは足元の地面に眼をやった。  色とりどりの絨毯がすでに戦いの跡を覆い隠している。菌類の生長は異常に速いのだ。  |走査《スキャニング》する眼が徐々に赤光を放っていった。立ち昇る瘴気が妖しく渦巻き、美しい顔は吸血鬼の形相に変じた。  真紅の眼が地の一点で停止する。腰のベルトにつけたパウチから、小指大の透き通った円筒を取り出し、Dは地面に膝をついた。  吸血鬼に変じてまで何を探そうというのか。何やら地面の一部を円筒に収めると、Dはゆっくりと周囲を見回した。  不吉な視線に招かれたように、遠い空から黒雲が湧き上がってきた。 [#改ページ] 第四章 雨の夜の夢魔  最後の授業が終わる頃、水滴が窓を叩き始め、校舎を出る時分には本降りとなっていた。頭からかぶった防水コートにはじける水の音がやかましい。  少し|脂肪《あぶら》を塗りすぎたかな、と泥道を歩きながらマイヤー教師はぼんやり考えた。分厚い大鹿の皮に塗りつけた虎男の獣脂は、少し厚めにすると硬化する時間が早く、この地方特有の強烈な雨足にあって、頬げたをはたくような音を立てる。  校門を出て五分としないうちに音はさらに凄まじさを増し、教師は帰宅を急いだことを後悔し始めた。五メートル先も見えない。  だが、吸血貴族の脅威にさらされている村人たちにとって、雨は一種の福音なのである。吸血鬼は流れ水を渡れないという伝説にある通り、統計上、雨の日の襲撃はゼロに等しい。顔をしかめながらも嬉々として家路を急ぐのが辺境の人々であった。 「——?」  流れ落ちる水滴の壁の内側を、人とは思えぬ速度で移動する影を認めて、教師の足は止まった。明らかに人間そっくりで、どこか常人とは違う奇妙な歩き方が、不吉な翳を胸に落とした。  雨の日を好んで出現する水鬼や┬みずぼうず┴は数年前に駆逐され、村の要所に貼った護符は半永久的に有効なはずだ。とすると——?  影の消えた方角に農家が一軒あることを思い出し、マイヤー教師は校舎の方を振り返った。助けを呼ぼうと思ったのである。しかし、農家までは五百メートルとない。胸の不安が現実となるには一〇分とかからぬ距離であった。  少しためらい、マイヤー教師は影の後を追った。  巨大な食用野菜を植えた畑の間を、細い畦道が続いている。軟らかい土の表面は猛烈に雨にえぐられ、間断なく黄色い|飛沫《しぶき》をあげていた。あちこちで、野菜の葉が付け根から折れる硬い音がする。  影はとうに視界から去っていた。  間違いなく農家へ向かっている。マイヤー教師は足を速めた。  不安は的中した。  農家の黒い影が灰色の世界に浮かび上がったとき、悲鳴が雨の怒号を突き破ったのである。何かが壊れる音と、人とも獣ともつかぬ唸り声がそれを隠蔽する。  教師はコートを脱ぎ捨てて走った。走りながら上着のポケットを探り、不器用な手つきで護身用の散弾筒を掴み出す。  農家のドアの前で立ちすくんだ。ドアはそのままだが、脇の土壁に黒々と巨大な穴が口を開けている。大の大人が優に通り抜けられる大きさだ。それに要する力と、入口の区別さえつかぬらしい無知さ加減が、教師の足をすくませた。  またもや絶叫。今度は子供の声だ。強靭な職業意識がつかの間の脅えを追放し、マイヤー教師は入口から内部へ飛び込んだ。  この瞬間眼にする光景を、使命感から一種の麻痺状態にあった教師は予想していなかった。それがかろうじて、第二の金縛りに陥るのを救ったといえるだろう。  妙に白ちゃけた視界の中に広い土間があり、女の身体が横たわっている。農家の主婦らしい豊満な肢体の上で、髪を振り乱した七、八歳児程度の大きさの┬もの┴が蠢いていた。  引き裂かれた服からみごとな乳房が露出し、その上を赤黒い舌が這う。舌舐めずりの音はしたが、男と女の愛撫ではなかった。乳房から喉元にかけてしたたる赤いものをそいつは舐めているのだった。  女の乳房の上で黒い頭が動き、女体が痙攣した。そいつはゆっくりと顔を上げ、教師と相対した。異様にせり出した額と陥没した両眼。その血走った瞳には人間性の断片もうかがえず、そこだけは並はずれて大きな唇が新たな獲物の登場ににやりと笑うと、ぶっ! と何かを土の上に吐き出したのである。生き血に濡れた歯を見るまでもなく、食いちぎられた乳房の先端であった。  横手でドアが軋んだ。  奥から現れたそれが、マイヤー教師には子供の身体をくわえた|人狼《ワーウルフ》に見えた。  散弾筒を持つ手は、しかしどちらの生き物にも狙いをつけようとしなかった。教師とて辺境の人間である。妖魔凶獣の類とは隣り合わせに生き、処置の方法も心得ている。手の中にある武器で二度、|妖鳥《ハーピー》と|蛇人《スネーク・マン》を撃退した経験者だ。それが動かない。  自らの心の動きに気づいて、教師は激しく動揺した。  女の死体を貪っていた奴が立ち上がり、四つん這いの生き物が子供の身体を放した。近寄ってくる。 「よせ。近寄るな」  喉がかろうじて声を発した。散弾筒があてどなく左右に揺れる。  二頭だ、と教師は思い込もうとした。二匹だ。二人じゃない。  殺戮にのみ狂った眼が炎と化し、血まみれの唇が左右に吊り上がって歯並みを露出した。平凡な人間の歯であった。  ——こいつら、ぼくと┬同じの┴——!?  前と横から黒い影が飛びかかってきた。  やめろお!  轟音と三〇発の|球型《ボール》弾が教師の絶叫をなぐり消した。  外では雨足が強さを増していた。  村の片隅で小さな恐るべき戦いが行われている頃、リナは家に戻った。授業にも身が入らなかったのは廃墟での一件からして当然だが、妙に気が重い原因はDの言葉にあった。  もう、ついてくるな——こう言われたのである。若き吸血鬼ハンターの助手を自任していた身にすれば、大いにプライドを傷つけられたことになる。  暴言許すまじ。  撤回あるのみ。  この二句を胸におさめ、部屋へ鞄を放るや、リナはDの住まい——納屋へと乗り込んだのである。馬小屋にDの馬がつないであった。むむ、いるな。 「あらら」  意外な光景に、驚きが口をついて出た。  Dがダンピールだということは村長からきいている。その性質についてもある程度の知識はある。  てっきり眠っているか食事でも摂っているかと思ったのに、なんとDは、長いこと放り出してあった古い木机と椅子をひっぱり出し、その前で小さなフラスコを振っているではないか。  あっけにとられて近づき、机の上に並んだ道具を見て、リナはもう一度、今度はもっと眼を丸くした。  何やら異様な色の薬品を収めた薬瓶、銀色の円筒数本はともかくとして、台に収めたフラスコからは白い煙が立ち昇り、その傍らで低い音と青白い光を発しているのは、マイクロ・コンピューターではないか。 「驚いた。吸血鬼ハンターって、化学分析もやるの?」  すでに来訪者に気づいていたのか、Dはふり向こうともしなかった。憎らしいったらありゃしない。 「あのね——」  両肩に力を込めて言いかけた途端、 「助手は解任したはずだが」 「やった!」  リナは指を鳴らした。笑顔がこぼれる。 「何が┬やった┴、だ?」 「また助手になれそうだから。おっと、とぼけても駄目よ。今の言い方、脈ありと見たわ。私、読心能力もあるんだから。あなたの心の動きくらい、ばんばんわかっちゃう」  ほんとは、あなたのだけよ。  Dはリナの方を向いて言った。 「別の言い方をすれば出て行くか?」  静かな声音に含まれたものに、ぞくっと身を震わせながら、リナは努めて陽気に首をふった。 「やだ」  冷酷な言葉に傷つけられたらどうしようと思ったが、Dは無表情に机へ戻った。  で、さっさと近づく。コンピューターに眼を走らせ、 「一〇〇立方センチに推定一四・三グラム、一立方ミリメートルに四五〇万——女子のヘモグロビン量と血球数ね、これ。また、誰か襲われたの!?」  Dがふり向き、「よくわかったな」と言う。物騒な事件のことではない。コンピューターにディスプレイされた数値の内容だ。 「さすが選ばれただけのことはある」  リナは豊かな胸をそらしてムフフと笑った。次の瞬間、Dの顔に頬をすり寄せんばかりにして、 「ね、助手に教えて。これ、誰の血液?」  Dは光る眼でやんちゃ娘を眺め、そっぽを向いた。ふん、予期した行動よ。負けてなるもんですか。 「いいわよ。じゃあ、私、勝手についてく。あなたの行く先々で独自に行動しますからね。大事な証拠が踏み荒らされても怒らないでちょうだい」 「好きにしたまえ」  交渉決裂であった。  ぷっと膨れても無論Dには通じない。かと言ってこのまま帰るのもしゃくだ。リナはコンピューターを見守ることにした。  数年前に一度、巡回商人が持っていたのを見たことがある。貴族の科学文明の遺品で、数は少ないし、使いこなせる人間の方はもっと少ない。確かデータ分析の他に、「推理能力」までついている万能型のはずだ。しかし、まさか吸血鬼ハンターが愛用しているとは。  Dの指が磁気ボールに軽く触れ、ディスプレイが変わった。 「ヘモグロビン量一六グラム、血球数五〇〇万——これは男のものね。ひょっとしたら、D——」 「女の血は、クオレを見つけた森の中にこぼれていたものだ。湿度が高いせいで乾き切っていなかった。匂いも残っていた。それに、昨夜の女の血も足してある」  ようやく人並みな返事をもらえた、と跳び上がりかけたとき、コンピューターは数値以外のものをディスプレイし始めた。上下左右に青い光が尾を引いて流れる。 「そうか。襲われた|女《ひと》たちの血液に混じった唾液から、貴族の正体を推理させるのね。凄い!」  恐れと好奇の視線をリナはディスプレイに注いだ。  四方に流れる光条の接触点にまばゆい光点群が生まれ、一瞬めまぐるしくその位置を変えたと見るや、暗緑色のディスプレイ上にひとつの顔が描き出されていた。  リナが生唾を呑み込んだ。 「見覚えのある顔か?」とDが尋ねた。  リナは首をふった。  そこにあるのは、見たこともない男の立体像であった。  Dの手が動き、「顔」の角度は様々に変わったが、リナには記憶がなかった。 「村の人間じゃないわ。タジールとも違う。よかった……」  それは、リナたち三人の疑いが晴れたことでもあった。雨の音がはっきりと耳に届いた。 「何を泣いている?」  コンピューターを止めてDが訊いた。採取した女の血はすでに乾き切り、森の犠牲者を割り出すことはできなくなっていた。 「ふん」とリナはそっぽを向いて眼頭を拭った。「雨の日はおセンチになる主義なのよ。これでも女の子ですからね」  相槌ぐらい打ってくれるかと思ったが、Dは何も言わなかった。代わりに入口から外を見やって、よく降る日だと言った。 「貴族って雨が苦手なんですってね、どうして?」  積年の疑問をリナは口にした。幼い頃、遠い村で貴族出現の噂が立った時など、雨の日しか外に出してもらえなかったのだ。 「おれにもわからん」と答えながら、Dの顔を不思議そうな色がかすめた。この少女の質問にいちいち答えてしまう自分に対する疑問であった。「生物学的に見ても、彼らの代謝機能についてはまだ謎が多い。夜のみ外出できるわけ。銃弾やいかなる科学兵器にも再生可能な肉体が、たった一本の白木の杭で滅び去る理由。流れ水を渡れず、雨の日の外出を避けるのも同様だ。実質的な不死という生物進化の究極に達したものに、これほどの欠陥が伴うとは皮肉な話だが」 「科学の光いまだしというわけね」リナは好奇心に瞳を輝かせながら言った。「貴族たち自身は、その謎を解いていたのかしら? 「おれの知る限り」とDは首をふった。「生物学的な弱点は種としての欠陥につながる。彼らが解明の糸口でも掴んでいれば、人間が地球の覇者となる日はついに来なかっただろう。彼らは、自らの滅びの原因も知らずに歴史から消えていったのだ。それはそれで、いさぎよい態度だったのかもしれん」 「生物種としての根本的欠陥ね」Dの最後の言葉に感慨めいたものを感じながらリナはつぶやいた。「貴族は滅び、人間は残った。でも私たちは、今でも滅びたものたちの幻影に脅やかされているわ。地球の覇者にしては、少し情けないんじゃなくって?」  Dは黙って入口に近づき、軒からしたたる滝に手をかざした。そのまま外の一点に眼を据える。リナも小首をかしげて後を追った。  灰色の紗幕の向こうに丘陵の輪郭と、幾つもの人影が見えた。┬くわ┴を振り上げ振り下ろす人々。原子力耕耘機の唸りもきこえた。雨をいとわぬ人々にとって、貴族の脅威に脅えず野良仕事に精を出せる┬絶好の日和┴であった。 「いま外へ出ればおれの体温は二度下がる」とDはかざした腕の上で砕ける水滴を見ながら言った。「走る速度も三割は落ち、代謝機能自体がレベル・ダウンするのだ。だが、君たちは——」  初めて見るDの遠い眼差しに、リナはこの美しい若者の背負う宿命を痛いほど感じた。貴族と人間の血を引くというのは、どんな事なのか? その一方を「狩りたてる」とき、彼の胸に去来する想いは?  リナはDの濡れた腕をとった。 「おい?」  手首から先を両手で包み、黙って頬にあてた。冷たい手だが、少しは温かくできるかもしれない。この|男《ひと》と同じ温度になれるかもしれない。リナは眼を閉じ雨の音だけをきいていた。  だし抜けに、凄まじい鬼気が面貌を打った。全身が総毛立ち、リナは思わず手を放した。Dの横顔と眼を向けている方角に変化はない。だが、少女の前にいるのは美しい孤高の若者ではなかった。 「ここを動くな」  言い放つ言葉に|抗《あらが》いようもない威圧を込めて、吸血鬼ハンターは降りしきる雨滴の中へ突進した。彼が左手に長剣を携えていたことに、リナはようやく気がついた。  Dの速度が平常より落ちているとは到底見えなかった。百メートルを六秒とかかるまい。風に巻かれては顔面を叩きつける雨にも瞼は閉じなかった。  軽々と柵を越え、畑に入る。スピードにはいささかの遅延も生じない。泥土ですら、この若者の足を取り、滑らせようとは思わぬのであった。  五十メートル先の目的地まで三秒ジャストでついた。  輪になった農夫たちが鬼気に打たれて振り向き、脅え顔で道を開ける。  地に伏した┬もの┴のかたわらに、Dは膝をついた。  矮小な身体に長い頭髪をこびりつかせた生き物であった。青白い、水死人のような肌の下から赤いものが広がっていく。まだ息はあるようだ。  Dは無造作に身体をあお向かせた。農夫たちがどよめく。生き物の腹と胸に数個の射入孔がうがたれていた。散り方からして散弾の痕だろう。 「どちらから来た?」  Dが振り向かずに訊いた。 「あっちだ——学校の方から」  震えを帯びた声であった。 「もう動くこともできん」とDは┬それ┴を指差して言った。「村長の納屋へ運んでおけ。触れるのが嫌なら治安官を呼ぶがいい」 「お、おめえがするがいいだ。おめえの仕事でねえか」  方角を答えた声が反抗した。 「こんな化け物に触れたら手が腐っちまう。化け物は化け物同士で片ぁつけるがいい」  大胆に言い放った声が悲鳴に変わって、農夫はその場に転倒した。何のことはない、Dが立ち上がっただけである。だが、突如勢いを増した雨と風の中で、男たちは赤光を放って燃えさかるものを見た。  Dの眼だ。 「運べと言ったぞ」  前と変わらぬ、むしろ穏やかな声の中に何を感じたか、我先に奇怪な生き物の死骸へ飛びつく男たちへ二度と眼を向けようとはせず、Dはやって来たときと同じ速さで納屋へ引き返した。  戸口にリナと村長が立っていた。 「何事じゃ、一体?」  しわで囲まれた眼に狂気にも似た光があった。 「わからん」とだけ答え、Dは素早く奥へ入ると身仕度を整えた。コートを羽織り、|旅人帽《トラベラーズ・ハット》をかぶる。その周囲だけ時間の継起に狂いが生じたようであった。村長とリナの眼には、服も帽子もDの身体に吸いついていくように見えた。戻ってから十秒とたたぬうちに、Dはふたりの前を通過していった。  鉄蹄の響きが雨の彼方に消えてから大分たって、農夫たちが不気味なものを運んできた。  二キロほど北へ進んで、Dは馬を止めた。人間の眼には雨しか見えないが、Dは五百メートルほど前方に揺れる黒い校舎の影を識別することができた。 「匂いが消えた。出番だぞ」  と左手に向かって言う。その掌に┬もこもこ┴と盛り上がってきた男の顔——言うまでもない。怪奇な|人面疽《じんめんそ》だ。不機嫌まる出しの声で、 「なんじゃ、よい夢を見ておったのに。おお、雨か」  言うなり、小さな口を開いて篠つく雨に喉を鳴らした。 「匂いは?」とDがせかす。声に冷たい怒りがこもっていた。 「あわてるな。眠っていても腹はへるでな。ここから東じゃ。ざっと四百メートル」  ┬ふたり┴は豪雨に消えた怪物の血の臭いでも嗅ぎわけたのだろうか。一分とかからず、Dは一軒の農家——ほんの一時間ほど前、マイヤー教師が遭遇した惨劇の家の戸口をくぐっていた。  濃密な血の臭いが鼻をつく。  土間に農婦と子供の死体が転がっていた。どちらも事切れているのを確かめ、Dは土間の入口に膝をついた。  土の上に鮮血がぶちまけられ、血痕が蛇のように外へと這っている。あの怪生物の血だろうか。森のときと同じく、腰の万能ベルトから取り出したガラス瓶へ土ごと血痕を収め、Dの右手が別の品を拾い上げた。  散弾筒である。マイヤー教師が使ったものだが、Dにはわからない。銃口を┬左手┴へ近づけ、「どうだ?」と訊いた。 「ざっと、一時間前じゃの」 「死体から見て貴族の仕業ではないな。数はふたり。ひとりはさっきの死体か。この武器を使った奴と撃たれた奴——どっちの血だ?」 「わからん。だが、もうここには誰もおらんぞ」  Dは立ち上がった。外へ出る。端正な横顔をまたも風雨が見舞った。 「吸血鬼以外はおれの出番ではないが、しかし、さっきの奴は……」  つぶやいてあぶみに足をかけ、Dは硬直した。  周囲には何もない。誰もいない。  にもかかわらず、Dは微動だにしない。動かぬのか、あるいは動けぬのか——  遠くとも近くともいえぬ背後に、ある気配が湧いた。  ——D。  とそれは呼んだ。声ではなく、気配そのもので。  ——やはり来たか。 「┬ここにいた┴のか?」  Dの声は機械のようであった。  すると、背後の┬気配┴の主は、彼の知り合いだろうか? 「探したぞ、長い間」  ——失敗だったかもしれん。  と気配は重く┬つぶやいた┴。  ——もう一度、計算局へ来るがよい。いつでも、そこにいる。  Dの右手が動いた。必殺の一撃が空を薙ぐ。  ——失敗だったかもしれん。  振り向いたDの長剣に雨がしぶいた。  ——計算局におる。  音もなく飛来する白木の針がかき乱したかのように、気配は闇に呑み込まれた。  虚空の一点を見つめるDの全身で、雨音が嘲笑のように鳴っていた。  村長は荒れ狂う妖異の波に翻弄されていた。昼歩く貴族だけでも村中をわななかせるには十分なのに、今度は前例のない怪生物まで出現して農家を襲い、あろうことか村人のひとりが行方不明という事態を迎えたのである。  Dの話をきいてから出動した治安官と自警団の一行は、土間の大量出血と他の死体から判断し、マイヤー教師は十中八九死亡との結論に達した。身元が判明したのは、自警団のひとりが、Dの持ち帰った散弾筒を自分がマイヤー教師に売ったものだと証言したためである。  怪生物の死体は村の医師のもとへと運ばれ解剖に附されたが、ここでも見通しの明るい結論は出なかった。  単に生物というより人間に違いないが、骨格の形状、筋肉の発達、内臓部位等、二百近い点で明確な差異が認められたのである。頭部切開はしないが、頭蓋の形からして脳容量、知能程度ともに極端に低いだろうと医師は断言した。開頭を行わないのは、新種の生物を発見した場合、頭骨ごと脳に冷凍処理を施し『都』へ送る取り決めになっているからだ。  このとき、居合わせたDが意外な提案をした。今夜ひと晩、この死体と臓器を貸して欲しいというのである。 「何のつもりだ!?」と村長は眉をひそめ、医師も首をかしげるのを、 「おれの道具で調べてみたい。無礼は承知だ」  例の鬼気にやんわり首筋をなでられたものか、医師は青ざめて口をつぐみ、村長も不承不承うなずいた。Dを招いたのは自分だし、まだはかばかしい戦果をあげていないとはいえ、先夜の夢魔のような吸血鬼の実力を眼の当たりにした以上、それを倒せるのはこの美しい若者のみと骨身に沁みて知ったからである。 「好きにするがいい。だが、一日だけだぞ。明日はもう『都』へ送る。——それより、あの女をどうする気だ?」  二度も血を吸われ、今も生と死の交錯する床に臥すカイザー夫人のことである。白木の杭を手にした自警団の若者が昼夜をわかたぬ監視を続けている。夫はまだ帰らない。 「問題はあるまい。死体と一緒におれの納屋へ運べ」  こうして、Dは二つの死体と一夜を過ごすことになった。  それにしても、新たな怪生物の登場と豪雨の中で遭遇したあの気配——Dの必殺の一撃すら空を切らせたものの出現を前にして、何ら焦りの色を浮かべていないのは大した神経だ。  村の墓地をはじめ空き家という空き家を徹底的に調査し直したが怪しいものは発見できなかったという治安官一派の報告を受けたときも、最初から期待などしていないのか平然たるものだったし、マイヤー教師がまだ帰宅していないときかされても、眉ひとすじ動かさなかったのである。  夜間巡回は自警団と治安官が合同で担当し、納屋でひとりになるや、Dは怪生物を載せた台のかたわらに立った。すぐ脇に、腐食防止液につけた内臓の瓶が数本、天井の太陽ランプの光を鈍く跳ね返している。どちらも医師宅から運んだものだ。外では雨の音がやかましい。 「いるか?」  と低い声で訊いた。 「ふむ」  と掌が答えた。顔はすでに浮き上がっている。  Dは左手を死体の上にかざした。内臓を切除された腹腔部は無惨に窪んでいる。丁寧に縫い合わせた開腹部も、皮膚と融合しかけの手術糸の痕跡が妙にグロテスクだ。  指が瘤状に変形した爪先から、O型に彎曲したくるぶし、太腿へと左手がゆるやかに這っていく。Dはもちろん眼を向けているが、もっとも死体と接近している掌の中で、人面疽がしごく真面目な表情で動かぬ患者の観察を続けているのは、不気味というよりユーモラスであった。  腹、胸、顔と移動し、頭頂から流れる髪の毛に軽く触れたのを最後に、Dは左手を離して訊いた。 「どうだ?」 「ふむ、案の定だ。今は死んでおるが」  Dはうなずいた。考えてみれば、これほど異様な会話もあるまい。┬今は死んでいる┴とはどういう意味か? 「いつ頃起きる?」 「下らぬ質問をするな。古代から逢魔が時は300|M《モーニング》と決まっておる。それより、うとうとしながら小耳にはさんだが、マイヤーとかいう教師がいなくなったそうじゃの。こ奴の仲間にやられたか?」  どうやら人面疽は、掌の中にいて、外界の出来事を見聞きできるらしい。 「恐らく」とDは言った。「だが、今度の事件には、今ひとつ腑に落ちんところがある」 「ふむ」と声は嘲るように「鍵はやはりあの廃墟じゃろうな。もう一度、ひとりで出掛け、とことん調べる手じゃ。いやいや、あの娘を連れていっても安全じゃぞ。なにせ、┬あの方┴がおるでなあ」  嘲る調子が不意に途切れた。Dが左手を握りしめたのである。それがいかなる力であったか、つややかな肌は震え、やがて、しわがれた苦痛の呻きとともに、曲げた指の間から鮮血が糸を引き始めたではないか。 「あの方か……」開け放した入口に眼をやり、Dはつぶやいた。「すべては|彼奴《きやつ》から始まったのだ。すべての夢も、すべての悲劇も」  凄まじい風が入口から吹き込み天井のランプを揺るがせた。その中で、Dの顔は魔性のそれに変わっていた。 「やめて……」  生臭い唇が哀願を吸い取り、必死にそむけた顔に村長のそれが重なった。  欲情した息と舌が、首筋と頬を這い、耳孔に差し込まれたとき、リナは思わず呻き声を洩らした。しわだらけの手が、パジャマの胸元から乳房を揉んでいる。 「お願い……やめて……いや」 「どうしてじゃ?」  少女の拒否をむしろ楽しみながら、村長は白い二本の腕をシーツの上にねじ伏せた。薄笑いを浮かべ、 「あのハンターが来たからか? 無理もない。男のわしでさえ胸の高鳴る美形じゃ。まあ、それもよかろう。たまには嫌がる身体を抱くのもよい」  唇が乳房に吸いついた。リナは身をよじったが、どうしようもなかった。眼尻から涙がこぼれ、白いシーツを濡らした。  少しして、老人は唇を離して言った。 「おまえはわしのものだ。村の連中に|嬲《なぶ》りものにされるところを救ったのも、養女にして、奴らにおかしな真似ひとつさせなかったのもわしだ。じき、おまえは村を出ていく。それは仕方がない。だが、それまで——いや『都』へ出ても、他の男のものになるのは許さんぞ。そいつに惚れるのもな」  声に妄執がこもっていた。リナは顔をそむけた。 「わしのことを忘れられんようにしてやる。身体に覚え込ませてやる。こんなふうにな」  老人の顔が下肢へと下がり、リナは責めの結果を声に出すまいと唇を噛んだ。剥き出しの白い腿を骨ばった手が這いずる。  必死で枕もとを見た。  枕の下に白い花が一輪覗いている。  全身から欲情が嘘のように引いていった。  まだ見ぬ人物の顔をリナは想った。  女体の反応を敏感に察知して、老人の舌が速度を増したが、リナの表情は不思議に安らかであった。  胸の|裡《なか》の顔は、あの吸血鬼ハンターによく似ていた。  豪雨に風が加わり、川の水位は著しく上昇を続けていた。もとから激しい流れではあったが、風にあおられては盛り上がる波頭の速度に、流れはついていけなかった。けたたましい雨音さえ凌ぐ濁流の怒声に、川辺の家々では住人たちが不安な顔を見交わした。  橋のたもとで二つの人影が動いた。自警団の男たちである。黒い防水コートを着た姿は、彼らの恐れる夜の魔物を連想させた。 「こりゃ、危ねえな。決壊するかもしれねえ」  大柄な方の意見に、土手の下にいる小さな影が反意を示した。 「いや、雨の強さは去年と同じだ。橋げたは補強してあるし、土手の高さも増してある。心配はあるめえ。もっとも、明日も|明後日《あさって》もこの調子じゃわかんねえがよ。——おい、足なんざ掴むなって」  ふたりの間に沈黙が落ちた。大柄な男は小男の┬上に┴いる。  長いことかかって小男が足首に眼をやった。  黒い水から上半身を出した男の腕が握っていた。 「お、おめえは——!」  数日前、この橋の上から棺もろとも転落した吸血鬼ハンターの顔を小男は覚えていた。青白い無表情な顔のまま、ハンターは腰の杭を抜き、小男の心臓を貫いた。死の痙攣に包まれた身体が水中に滑り落ち、すぐ見えなくなった。  ハンターはあわてずに土手を登り、硬直した大男の前に立った。  振り上げられた白い杭に胸を刺される寸前、大男は黒い水面から続々と土手へ這いのぼってくる男女の姿を見た。心臓に棒状のものをくっつけている。これまでに処分した貴族の犠牲者であった。  ——おれはここで死ぬのか、と大男は思った。この化け物に、杭で心臓を貫かれて。  杭が胸にめり込んだ。  飛び散る血|飛沫《しぶき》が見えた。  不意に土手の中腹まで転げ落ちた大男の身体に風が吹きつけ、容赦なくコートを剥ぎ取った。血痕は見えなかった。いや、大男の胸にも、遥か下流を波まかせに漂う小男の心臓にも、杭など刺さっていなかった。ましてや水死人の群れなど影も形も見えなかった。  259Mになると、Dは干し草の寝床から起き上がり、入口の壁についたスイッチを回して太陽ランプの光量をぎりぎりまで落とした。薄闇が納屋を支配する。異形の┬もの┴も現象も光を嫌がるのだ。  Dは寝床に戻り、即製ベッドの上の死骸と、生者でも死者でもない女を凝視した。  女そのものにさほどの重要性はない。昨夜も飽食した吸血鬼は、その気になれば数日のインターバルをおけるはずだし、何よりもDの実力を知った以上、のこのことやってくるはずがない。Dが手元に引き取ったのは、それでも万が一の来襲を考慮したのと、女が┬招かれる┴場合の結末を計算したからであった。  吸血鬼の術中に陥った犠牲者は、一種の遠隔催眠を受けることになり、自らの身を案じるものにまで呵責ない攻撃を浴びせる。  しかも、この催眠状態の最も恐るべき点は、人間が自らの肉体に対して潜在的に持つ禁忌さえねじ伏せてしまうことだ。正常時の約七倍——人間の骨格と筋肉に本来具わった全パワーを解放して暴れまわる犠牲者を押さえることは、同じ体格の男五人がかりでも難しいとされる。たおやかな乙女がプロの格闘士の頚骨をへし折った事件など、辺境ではニュースにすらならない。そうなる前に、付き添いの者たちは容赦なく木の杭を使おうとするだろう。守るべきものたちが殺人者と変わる——これを悲劇というべきか喜劇とするべきか。  しかし、そうなると、Dが怪生物の死骸を借用した目的は? そして、人面疽との不気味な会話の意味は?  きっかり300Mに変化は生じた。  Dの眼が妖しく光る。  死骸は何の予備動作も示さず、ゆっくり上半身を起こした。  ああ、起きるとはこの意味か。┬さっき┴死んでいた死骸は┬いま┴起き上がり、顔だけは虚ろな死人のまま、するりと台から降りた。しかし、内臓のすべてを抜き取られ、腹部は大きくへこませたまま、これは何という強靭な、また不可思議な生命力だろう。 「やはりな」  Dのつぶやきは、これが見たかったせいだろうか。  生ける死骸は瓶の前に行き、身の毛もよだつ行為を開始した。器用にばね仕掛けの蓋をはずすや、手を差し込んで、しずくの垂れる内臓を取り出し、融合しかけていた傷口をびりびりと押し広げるや、|愛《いと》おしげに納めだしたのだ。内臓をもとの位置に。  D以外のものが目撃すれば発狂もしかねない行為がしばらく続き、心臓も肺も胃もすべて取り戻した死骸は、むろん腹の底にたまった臓腑のふくらみを気にもとめず、濁った瞳で周囲を見渡すと、ぎごちない足取りで入口の方へ移動し始めた。  Dも立ち上がった。コートの背で長剣の鞘がかすかに光った。干し草の切れ端ひとつ舞い上がらない。静かな足取りで死骸、いや、復活を果たした怪生物の後を追う。  小さな影が入口を出た。  後に続こうとして、Dは立ち止まった。風雨に恐れをなしたのではむろんない。ダンピールの五感が、裏手からひしひしと押し寄せる何ものかの気配を捉えたのだ。凄まじい精神エネルギーの凝塊であった。姿は見えない。  Dの背中が鞘鳴りの音を立てた。それっきり、動かない。  気配は彼を取り囲んだ。  全身濡れそぼった死人の群れ。心臓に杭を打ち込まれ、その鮮血で生々しく屍衣を染めた娘と若者たち。この村ができて以来、貴族の毒牙にかかり、流れ水に投ぜられた死体たち。  だが—— 「心理攻撃か。高級な技を使う」  Dは居並ぶ彼らに影のないことを見抜いていた。 「久しぶりだな、D。こんなところで会うとは思わなかったぞ」  ただひとり、杭の犠牲になっていないぶよぶよの水死人が進み出た。吸血鬼ハンター・ゲスリンである。この男の記憶を┬とば口┴に、敵はDの心に幻を投影しているのだろうか。 「どうだ、D。おれたちが斬れるか?」  ゲスリンの右手が動き、白い稲妻がDの頬をかすめた。にじんだ血潮を雨滴が飛び散らせた。 「おまえの剣ではおれたちが斬れん。おれたちの杭はおまえに刺さる」  血まみれの死者たちの手に白い|楔《くさび》が光った。  Dの右手からほとばしる白木の針は、死者たちの身体を突き抜け、背後の小屋を貫いた。ゲスリンは嘲笑した。 「どうだ、D? これがおまえの実力か? やってみろ。おれたちが斬れるか?」 「斬れる」 「なに!?」  動揺した|死人《しびと》の眼に、Dの瞳がどう映ったか。それは凄まじい赤光を放っていた。唸り飛ぶ非実在の杭すべてを優雅な動作でかわし、次の瞬間、Dは死者の包囲の真ん中に突入していた。  驚愕の表情をこびりつかせたままゲスリンの頭部が二つに裂けた。杭をかざして躍りかかる若者の首が飛ぶ。悲鳴まじりに後退する女の胸を白刃が貫いた。Dの口元から二本の牙が覗いていた。その凄惨な表情を誰が正視できたろう。これは、魔人による死者の虐殺であった。  銀の|刃《やいば》に雨がしぶいた。  雨と風と闇のさなかに、Dは孤影を引いて立ち尽くしていた。  誰もいない。いつものように。  頬の傷痕も消えていた。すべては、彼の心の中での戦闘だったのである。 「やれやれ、いつもながら凄まじい真似をする」  すでに白蝋のような美貌を取り戻して周囲の気配をうかがっているDに、左手からあきれ果てたような声が言った。 「血は争えんな——じゃが、あの怪物が仲間と合流する場所を突き止める企てに、余計な邪魔が入ったものじゃ。果たして偶然かどうか」 「偶然とすれば、あの生き物と昨日の奴は無関係ということになる。意図的ならば、謎のすべてが一カ所に集まっているということだ」  Dは納屋の戸口で肩の雨滴を払いながら言った。黒髪が澄き透るような肌にまといつき、さらには戦いの名残か凄愴な鬼気までまつわりついて、なんとも形容しがたい美しさだ。この青年の前ではいかなる美女も色を失うだろう。  左手の声すら、うっとりとしたように、 「ほほ、これでよく、追いかける女や男どもに、一度たりとも牙を向けずに来たものじゃ。おまえがひと言いえば、地球最高の美姫でさえその白い喉を差し出すじゃろうに。その意志の固さだけは賞めてやるわい。——で、どうする気だ?」 「気になるのか、おれが?」  Dが低く尋ねた。 「馬鹿を言え。あの城跡へ行くのかと訊いておる。あそこで何が行われていたか、薄々と勘づいておろうが。あの生き物は、恐らくあそこから——」 「わかっている」  Dの言葉がしわがれ声を断ち切った。  そうなのだ。畑に突っ伏した生物を見たときから、Dにはそれが城の奥の闇でリナと自分を襲った存在と同じものだということがわかっていた。 「行かねばなるまいな。あの方もおられることだ」  掌で、人面疽が不気味な笑いに歯を剥き出した。  薄暗い部屋の中に、数個の影が固着していた。  大きさはまちまちだが、どれ一つとして尋常な雰囲気のものはない。かなりの近距離から流れてくる多数の獣の唸り声さえ精気を欠いてきこえるほどに、異妖の気に満ちた部屋であった。 「しくじった」  影の一つが呻いた。言葉の内容と異なり口惜しげな調子はない。淡々とした、それだけに不気味な声であった。 「心理攻撃をかわすとは、あのハンター、恐るべき奴だ。まさしくダンピール。それも、ただの混血ではなかろう。——どう思う?」  問われた影は沈黙していた。 「まあ、いい」と最初の影は吐き捨てるように言った。  驚くべきことに、声はまだ若い。口のききようからして、一党の首領格——すなわち┬灰色の影┴だろうが、すると、残る二つは彼の犠牲者ファーンとクオレか? あの少年も、吸血鬼たちの巣窟でもはや無事ではあるまい。 「どちらにしても、奴にこれ以上村に居つかれては迷惑だ。おれたちの正体を気づかれることも」  影の腕が伸び、さっきとは異なる影を指した。 「明日、┬入口┴をつぶす。念のため言っておくが、二度と┬邪魔┴は許さんぞ。今度は┬お前といえども┴処分する」  指された影は脅えるように揺れたが、声はやはりない。  壁際で小さなものが動いた。全員の眼が戸口に注がれ、重い戸を軋ませながら入ってきた小さな生き物を捉えた。異様に突き出た下腹から喉元まで、赤黒い手術線が走っている。 「こいつだけは戻ってきたか」と首領格の影が言った。「逃げ出したとき、すぐ捕らえておけばよかったが、やむを得まい。新鮮な血と肉の香りがいたるところに満ちていては、いくら飲み食いしなくてもよいとはいえ、暴れ出したくもなろう。ま、もうじき、この村も、いやさ辺境全体がおれたちの手に落ちる。すべては明日だ」  影のふくみ笑いは自信に満ちていた。謎と怪奇をはらんで、闇ばかりが豪雨の村を覆わんとしていた。 [#改ページ] 第五章 光と闇の遺伝子  翌日、冷たい光が軒先に満ちる頃、Dは目を醒ました。三時間も眠ったろうか。昼夜の別なく行動できるダンピールとはいえ、生体はやはり睡眠と休養を要求する。美しい顔にこびりつく翳は、このところ日中ばかり行動せねばならぬ疲労のせいであろうか。  霧が出たらしく、白いものが入口や窓の隙間から納屋の奥まで入り込んでいるが、行動に差し支えるような濃さはない。いわんや、Dの眼には快晴の昼と同じことだ。  例の超スピードで身支度を整え、納屋を出る。  足取りは滑らかであった。猫属というより影のようだ。隠密性は人間を襲う貴族たちに天性具わった特質だが、彼らにもDほどの静けさは望めまい。彼ならば、貴族たちが理想としてついに果たせなかったと言われる|宴《うたげ》——月の夜の、足音なき舞踏会を成し遂げられるのではなかろうか。  少し離れたところにある馬小屋へ入りかけ、Dはふと足を止めた。七、八メートルほど先で母屋の石壁が朝日を跳ね返しているが、通りに面したその窓を開けて、白いガウン姿のリナが身を乗り出したのである。  窓のすぐ下に、小さな花壇がせり出している。リナは手を伸ばして、そこに載った白いものを掴んだ。  Dにははっきりと見えた。一輪の白い花であった。名前はわからないが、辺境の道でよく見かける小さな生命である。誰が置いたものか。  リナはそれを胸に押しあて、泣くような表情で通りの端に眼を送った。霧にかすんだ白い道の彼方を、少女はいつまでも見つめていた。  やがて、窓がそっと閉じられたのち、Dは馬小屋に入り、馬首を廃墟へ向けた。音を立てぬよう、少女の夢を壊すまいとするかのように、ひっそりと。  村長宅の地所を出ると全力疾走に移った。馬は霧をちぎって走った。名残の雪がはじけ飛んだ。早朝の意外な騎馬武者に、作物を狙う霧魔たちが何事かと降下し、手を触れることもできずに打ち砕かれ、背後で渦巻いた。  一気に村を通過し、丘を登って廃墟の入口に辿り着くまで二〇分とかからなかった。砕けた石壁の端に馬をつなぎ、中庭へ入る。Dはともかく、あの猛走で馬が息を乱していないのが不思議だった。  霧は廃墟の中まで侵入していた。  廊下からホールへ、真っすぐあの研究室への入口に向かおうとして、Dはホールの中ほどで足を止めた。  壁の絵を振り返る。一人の少女が歴史を学びたいと、その前で瞳を輝かせた絵であった。  すぐに向き直り、歩き出そうとした刹那、戸口の壁と天井が裂けた。裂け目から赤い閃光と獰猛なガス・エネルギーが溢れ出し、Dめがけて殺到した。Dがこれを認識し、回避行動をとるべく「意識」するまでの時間が生死の分かれ目だった。  衝撃がDの足をすくい、背後の壁へと投げ飛ばした。分厚い石片が乱れ飛び、轟音がホールを駆け巡る。  入口の前は瓦礫の山と化していた。パワーショベルでも持ち出さぬ限り、奥の空間へ足を踏み入れるのは不可能であろう。  Dは壁の下に上半身をもたせかけるような姿勢で横たわっていた。顔を覆ったロング・コートの裾は石片と埃で白く汚れている。動けるはずがなかった。数百トンの石の天井と壁を破壊するエネルギーの猛打を受け、とどめとばかり石壁へ脳天から激突したのである。常人なら全身打撲、内臓破裂で即死が当然だ。  昨夜、灰色の影が言った「入口を塞ぐ」作業の場に行き合わせてしまったとは、不運な偶然と言うしかない。  村から数キロ離れた森の道を、ひとりの旅人が馬を進めていた。岩みたいな顔を剛毛が埋め尽くし、それにふさわしい凶暴な眼つきと腰のリベット・ガンが、男の素姓を明確に示していた。辺境を旅するならずもののひとりである。  わずかな金になればゆすりたかりはもちろん、殺人さえも平気な|輩《やから》だ。分厚い電熱コートの下の肌には、おびただしい銃創、刺創がえぐり込まれているし、右の耳たぶは引きちぎられたように無惨な形状を留めて消失していた。遠い北の村で若い娘を絞殺したとき、断末魔の手にもぎとられたものである。  ここ数日、うまい食事にも女にもありついていない。次の村での快楽を期待してか、下品な唇が不潔な笑みを浮かべた。 「?」  手綱をしぼる前に、男は眼を疑った。五メートルほど前方の木立の陰から若い娘がひとり、残雪の街道へと歩み出たのである。それだけならまだいい。はちきれそうな肢体が男の眼に灼きついた。  娘は全裸であった。  ——辺境娼婦か。しかし、いくらなんでもあの格好は……気違いか。  頭の中でこう考えてはみたものの、粗野な荒くれ男の理性はたちどころに熱く溶解し、娘との行為のみが脳髄を占めた。それでも用心深く周囲をうかがったのは、さすが修羅場の数をこなしてきた経験のたまものだ。  ——誰もいねえか。するとやはり、気違い娘。好き放題にやりまくった後で|殺《ばら》しちまや、この辺なら腐って骨になるまで見つかる心配はねえ。  ところが、そう簡単にはいかなかった。  男が愛想笑いをしながら馬を降りると、娘はくるりと後ろを向き、なんとも悩ましい視線をひとつ送って森の中へ走り出したのである。若い娘特有の、はちきれそうなヒップの丸みが男を狂わせた。馬を手近の木につなぎ、鼻息も荒く後を追う。森の奥へ、二度と出られない闇の世界へ。  五分も追っただろうか。  裸体の溶け込んだ繁みに突き入って、男はたたらを踏んだ。  眼の前の草地に娘が横たわっている。  赤い点をつけた見事な乳房の隆起と┬ぬめぬめ┴と光る太腿が男の視線を釘付けにした。娘が呻き、下半身をねじる。必要以上にヒップを見せつける策だとは理解できるはずもなかった。白い肌に妙に血の気がなく、そのくせ唇だけは異様に紅いことも注意をひかなかった。  白い|肉体《からだ》の上に、黒い|石塊《いしくれ》がのしかかった。ねじきるように唇を吸い、舌を押し入れる。娘も応じてきた。  ——こいつぁ、凄え。  歓喜して眼をあけ、娘の顔を見た。  娘は笑っていた。  悪鬼の形相で。  跳ね起きようとした身体を細い腕が押さえ、リベット・ガンを掴んだ右手にもう一方の指が食い込んだ。  牙を剥いた唇が迫ってきたとき、男はようやく悲鳴をあげた。長いこと続いたそれを深い森が吸い取っていった。  マイヤー教師が休講だと知らされたとき、リナはクラス中の視線が突き刺さるのを感じた。  昨夜の事件は、すでに村中に知れ渡っていたのである。  学校近くの農家に得体の知れぬ怪物が押し入り、母と子と、ちょうど居合わせたらしい誰かを食い殺して逃亡した。おまけに今朝、橋のたもとで、水位の調査に出かけたまま行方知れずだった自警団員のひとりが死体となって発見され、身体に傷跡ひとつないことが判明して大騒ぎになった。  これだけならまだしも、知らせを受けた村長が納屋へ赴くと、Dの姿も怪物の死骸もなく、女だけが例によって昏々と眠り続けており、なんでも、額に十字架型のマークが血か何かで描かれていたというが、リナにはよくわからなかった。  当然村長は怒り狂い、Dの居場所を突き止めろと自警団に檄をとばす一方、極力村人への真相の流布を警戒したのだが、そこは狭い村である。リナたちが登校するまでに、事件の概要だけはほぼ完全に、家という家に知れ渡っていた。  怪物に連れ去られたらしい犠牲者がマイヤー教師だという情報は、昨夜彼の家を訪れた自警団員が洩らしたものだろう。  休講を告げに来た中等部の教師が、休みの原因は風邪だと偽っても、生徒たちの間に流れた暗い確信は揺らぐはずもなかった。  あー、またか、やんなっちゃうなあ、とリナは嘆息した。  学校は、決して居心地のいい場所ではないのである。  なんといっても十年前の出来事が控えている。貴族に拉致され、何やら奇怪な目にあわされて帰ってきた。——辺境の村ではこれだけで、優に追放の処分を受けるに値するし、それから数週間にわたって受けた「調査」の屈辱は、今でも暗い傷となって心のどこかにわだかまっている。心労のあまり父母は相次いで死に、村長の養女に迎えられても、二年間は村の子供たちに近づくことも許されなかったのだ。その間、何をするにも何処へ行くにも、自警団や村長の監視の眼が光っていたことは言うまでもあるまい。  みーんな、あたしと村長の仲は知ってるだろうしなあ。  リナはべそをかきたくなった。  十七歳の誕生日に、村長が無理やり自分を犯したことはともかく、ふたりの不倫な関係は、いつとはなしに村中に広まっていた。  辺境の村では、かなり不道徳な関係も許容されるのが常だ。雪や雨でいともたやすく外界から遮断されるような村にとって、労働力確保は最重要問題である。単なる快楽追求に終わらねば、夫と人妻、母と息子、父と娘——どれもが、新たな生命を芽生えさせる貴重な関係といえた。  この時代に近親婚による知能障害、その他の弊害は存在しなかった。貴族たちは何故か、遺伝子工学の成果を好餌たる人間たちにも分け与えたのである。遺伝病は今の人類にとって名前さえ知らぬ過去の遺物であった。  それがリナの気を重く沈ませるのは、やはり十年前の影である。  クオレの痴呆状態がついに回復しなかっただけでも村人たちは恐れ|慄《おのの》いたのに、これに反して、リナとマイヤーの知能は驚くほど高まっていることが調査の結果判明したのだ。村長がリナを養女にしたのはそのためであり、彼とリナとの関係を級友全員が忌むのもそのためであった。  貴族の手で利口にされた女。  それでも、露骨な反発や嫌がらせがなかったのは、リナ自身の持つ天性の明るさ、爛漫さと、村人の白眼視に耐えつつ、巡回吏による試験に見事合格し教職についたマイヤー教師の励ましのおかげであった。幼い頃はひ弱な泣き虫にすぎなかった彼が、悪童たちの|虐《いじ》めに真っ向から立ち向かい、自分をかばってくれる姿を見て、リナはどれほど勇気づけられたことか。  いや、あのクオレですら、両親が早逝し、ひとり村をさまよう境遇に身を投じてからも、幾度となくリナの危難を救ってくれたのである。生まれつき温厚で優しかった性格は知能低下を来しても変わらなかった。自分に投げつけられた石を抵抗もせずに防いでくれた巨躯の頼もしさを、リナはよく覚えている。  そのふたりが自分の前から消えた。クオレはファーンに引き取られたというが、マイヤー教師の消え方は、クラス中の嫌悪と疑惑の眼をリナに向けさせるに十分だったのである。 「リナ、あんたが『都』へ選ばれたわけ、ようやくわかったわ」  いちばん仲の悪いビスカがきこえよがしの声を出した。 「あの城で何があったか知らないけど、よりによって十年もたってからあたしたちをビクつかさなくてもいいじゃない。あんたがいなくなった途端、ここは静かになるんじゃないの」 「かわりに『都』が大騒ぎよ」  ビスカのグループのひとりが嫌みったらしく言い、かん高い声で笑った。  ——ん、もう。張り倒してやろかしら。  と革のスリッパを脱ぎかけて、リナは我慢することにした。ふたりの言い草は、程度の差こそあれクラスの誰もが胸に抱いていることである。それを口にしないだけ、自分はみんなの仲間なのだ。  とはいうものの、リナの『都』行きが決まって以来、クラス中がきわめてよそよそしくなったのは否めない。辺境から旅立つことの意味の大きさを考えれば、貴族に関わった級友が自分たちの代表として行くことに、やはり釈然としないものが残るのだろう。  ——ま、しゃあないわね。  あっさり気分転換したリナへ、またもビスカが口を開きかけたとき、代理の中等部教師が入ってきて、朝のトラブルはそれで済んだ。  数学、物理と気乗りしない授業が進み、ようやく三時限めを迎えた校舎は、時ならぬサイレン音にどよめいた。 「なによ、あれ」 「三回連続——広場へ集まれだぜ」 「ひょっとして、貴族でも生け捕りにしたんじゃねえのか」 「阿呆」 「静かに」と教師が命じた。「わしは出かけねばならねえ。クラス委員はついて来い。あとは自習だ」  と言っても、言うことをきくような生徒たちではないのは承知している。教師とクラス委員のカリスが出て行くと、みな待ってましたとばかり出動準備に取りかかった。  妖魔が襲撃に来た場合に備えてある武器ロッカーをガタガタやる奴、弁当持参で駆け出す奴、あっという間に騒然たる雰囲気が膨れ上がり、次の瞬間、窓や出入口のドアを震わせて消えた。  クラス一おとなしいマルコまでが期待に眼を輝かせているのを見て、リナは吹き出したくなった。娯楽の少ない辺境では、恐ろしい凶獣が暴れても、それが村に直接の害を及ぼさぬ限り、子供たちは脅える前に興奮する。|大巨獣《ジャイアント・ビヒモス》や|妖鳥《ロック》といった伝説の大怪獣はともかく、今日び大抵の妖物に対する防御法は整っているからだ。  たくさんの大人たちが通りを急いでいたが、リナたちを見ても無論何も言わない。  広場は村のほぼ中央。一二〇歳のシャクラ爺さんから四カ月前に誕生したての赤ん坊まで、ほぼ千人足らずの全人口が入っても、優に収容できるだけのスペースを誇っていた。祭りや巡回商人の商品展示等、大がかりな行事はすべてまかない得る。  泥土を跳ね返しつつ生徒たちが到着したとき、広場の端にある倉庫から運び出された木台の上では、何とも異様なショーが繰り広げられようとしていた。  傲然と胸を張る自警団長ファーンのかたわらに置かれたのは三号電気檻——人間大の妖獣・凶鳥を封じ込める高圧電気の鉄檻で、それ自体はちっとも珍しくなかったが、中に入っている獲物を見て、みな一様に目を丸くした。  人間である。だが、人々を例外なく恐怖のどん底に叩き込んだのは、ならずものと思しいその男の凶暴な体躯と面構えではなく、脂ぎった唇からのぞく二本の牙であった。  昼歩く吸血鬼。  こいつが元凶か。  誰もが胸の中でそう叫んだ。明け方近くに雨はやみ、執念のごとく空を覆っていた灰色の雲もようやく切れて、おだやかな光の波が、|山脈《やまなみ》から村の家々までを真珠色に染めてはいたが、この広場だけは夜を思わせる暗い恐怖に凍結したようであった。  台の下にかたまっていた長老たちをかき分けるようにして、村長が折り畳み式の階段を昇り、ファーンの隣に立った。檻の中で凶気の瞳を向けている男をわざとらしく無視する。 「みなの衆——」と必要以上の大声を張り上げ、はっと気づいて床に埋め込んであるワイヤレス・マイクを取ったが、聴衆からは忍び笑いひとつ洩れない。貴族、犠牲者を問わず、陽光の下でも平気で活動し得る吸血鬼というあり得ぬ夢魔を眼の当たりにして、事の重大さにみな脅え切っているのだった。 「みなの衆——」ようやく村長の声が、広場のあちこちに埋め込んである超小型スピーカーを通して、全員の虚ろな耳に木魂した。 「知っての通り、ここんところの貴族騒ぎで、村には四人もの死人が出、わしゃ、乏しい財政から無理をして吸血鬼ハンターをふたりも雇った。だが、結局はそれも無駄——嬉しい無駄に終わったようじゃ。というのも、今朝早く、ここにいるファーンが北の街道でこ奴を捕らえたからじゃ。自慢してよいぞ、自警団の長とはいえ、吸血鬼を生け捕りにできたものは、この辺境にもたんとはおらん」  眼前の吸血鬼が周囲を見回す血塗られた瞳に凍りついていた村人たちも、半ば強引とさえいえる村長の讃辞にやっと人心地を取り戻したらしく、パチパチとまばらな拍手が起こった。その皮肉な意味に気づいたものは、むろんひとりとしていない。  代わってファーンがマイクを握り、捜索の輪を村の外に広げたこと、林の中で男と遭遇し、話しかけた途端に襲いかかってきたこと、それを護衛獣の力を借りて生け捕りにしたことなどを話した。  護衛獣の力は知りすぎるほど知ってはいても、まさか貴族やその犠牲者にまでは通用すまいと、普段なら眉唾つけるへそ曲がりたちも、眼の前に明らかな証拠を見せつけられてはひと言もなく、自警団長の武勇談が終わると同時に大きな拍手が巻き起こったものだ。 「よかったな、リナ。これで疑いが晴れたぜ」  励ますような声の方を向き、リナは一瞬あっけにとられた。  クラス委員のカリスが笑っていた。頭脳明晰、実行力も統率力も抜群、なかなかのハンサムではあるが、明るい笑顔の下に染みつく影みたいな冷たさが嫌いで、ろくに口をきいたこともない。向こうも村娘たちに騒がれるのは馴れてるようで、リナへのアプローチは皆無だった。 「なによ、あんた。心配してくれてたの?」 「当たり前だろ。クラスメートじゃないか」  甘い声に、リナは胸の裡で┬ぐえ┴と言った。阿呆か、こいつは。ややっ、身体をすり寄せてくるぞ。 「ほら、村長さんがまた訓辞を垂れたがってるわよ」  そっと重ねてきた掌を思いきりつねりながらリナは言った。 「この檻の悪鬼がすべての事件の元凶であることは、ほぼ間違いなかろう。そこでじゃ、今、|彼奴《きやつ》を血祭りに上げ、明日からの平穏な生活を祈る記念式典としようではないか。どうじゃ?」  このときまでに、どうやら本物の恐怖を捕らえたらしいと納得した群衆は一斉に手を叩き、賛同の声が広場を埋めた。豊作や無事な越年祈願に生き物を殺すことは、辺境の村に珍しい出来事ではない。 「ひどいわ」  自分の唇から洩れた言葉の意味に気づかず、カリスに驚きの表情を向けられて、リナははっと胸をつかれた。はじめて意識する心の動きであった。  私は吸血鬼に同情している!?  いきなり、檻の鉄棒に紫色の火花が飛び、中の男が悲鳴をあげて後退した。 「さ、ファーン、こいつを始末せい」  意気揚々とうなずく村長に一礼し、ファーンが進み出た。両手に握られた一メートル近い白木の杭は、むしろ槍に近い。念のためか、台の周囲を自警団の壮漢たちが取り囲んだ。  檻の男は脅えたように後退し、電撃にはじかれてつんのめった。凶暴な顔に焦りと恐怖を認め、こいつが本当の貴族か元凶かと疑う前に、人々は嘲りの笑いを放った。 「ほうれ、もっと逃げろ、逃げろ」 「はは、泣きべそかいてやがるぜ。あれでも貴族かよ」 「ファーン、ひと思いに殺すな。ゆっくりやれよ、ゆっくり」  自警団長は声援に応えるように手を振った。その唇のいつもとは違う赤さも、笑顔にただよう鬼気も、殺人ショーの悦楽に酔い痴れる村人たちにはわからない。  槍が突き出された。  男が身をひねってかわす。右手にスパークが走り、たまらず背を向けた右肩へ杭の先がめりこんだ。  歓声が広場を揺るがせた。  ファーンが薄笑いを浮かべて槍を構え直す。  リナは最後尾から飛び出した。泥を跳ねながら「やめて!」と絶叫した。人々をはねのけて走り、台の前に出た。 「な、なんの真似じゃ、リナ。退っておれ!」  村長の声にも、少女はひるまなかった。ふっくらと肉のついた美しい顔と身体が、怒りにわななきながら、この場のすべてを否定していた。 「退るのはあなたの方よ、村長さん。なんて残酷な真似をするの。相手は人間よ」 「村長ではない!」と老人は激怒した。白髪が風より怒りになびいて「わしはお前の|義父《ちち》だ。|義父《とう》さんと言わんか。退っておれ、この馬鹿もの! 後でたっぷりと折檻してくれるぞ!」 「駄目ったら駄目よ!」言い返しながら、リナは胸の中で首をひねっていた。自分は動物の虐殺ですら、もう静視できまい。なぜ、こんな気持ちが芽生えたのか。それを押し隠すように「酷いことだとは思わないの。武器も持たない相手を、しかも檻に閉じ込めて嬲り殺しにするなんて! ┬人間だったら┴、恥を知りなさい!」  しわだらけの顔に青筋を立ててわめきかかる村長を押さえ、ファーンが台から身を乗り出した。リナの眼の前にぐい、と血のついた槍の穂先を突きつけ、 「ほう。すると、あいつに武器を持たせた上でやりあえばいいと言うんだな。よかろう。言い出しっぺにやってもらおうじゃねえか。剣と槍のトレーニングくらいは受けているんだろう、ええ?」  生と死が隣り合わせの辺境の女たちは、物ごころついた頃からある程度の武器の使用法を習うのが習慣となっていた。男たちのように、火薬銃や石弓、レーザー・ガン等まで習熟するには及ばないが、短槍や軽量長剣、鞭ぐらいは誰でもある程度こなす。  突き出された槍の穂を、リナはためらいもせず引っ掴んだ。村長とファーンと村人たち、いや、┬人間全体┴に対する怒りが、十七歳の少女を脅えさせなかった。  村長が色を失い、村人のあいだにどよめきが走った。  その時—— 「それは、おれの仕事だ」  錆を含んだ美しい声が、風を巻いて地を走った。  あらゆる顔が——檻の中の男すら、傷の痛みも忘れて見入ったのである——馬に跨った黒衣の若者を向き、なんとも不可解な表情をつくった。  雲間から洩れる陽光を背景に、馬上から彼らを|睥睨《へいげい》する世にもまれな美青年。  その美貌をひと目見た刹那、男は嫉妬の炎を燃やし、女は情欲の虜となる。しかし、次の瞬間、そんな┬高級┴な感情は脆くも吹き飛ばされて、言いようのない恐怖が精神の暗部を冷たく占めるのだ。吸血貴族の鬼気が。  悠然と進める馬に人々は争って道を開け、Dは一瞬の遅滞もなく台の前に到着した。  ファーンとリナの硬直したまま動かぬ両手に握られた杭をやすやすと奪い取り、 「で、どうする?」と訊いた。 「おうよ」とDの声でようやく金縛りのとけたファーンが応じた。「今まで何処へ行ってたかは知らねえが、尻尾を巻いて逃げ出さなかっただけまともだぜ。ちょうどいい。どっちにしろ、おめえはお払い箱になるところだったんだ。ハンターならハンターらしく、最後にひと花咲かせて|帰《けえ》りな。なあ、村長」  呼びかけに村長は口ごもった。Dに見据えられたせいである。この若者の放散する鬼気は、ファーンの威圧感の比ではなかった。 「い、いや、その……彼を呼んだのはわしだし……まだ、事件は片づいておらん……」 「そういうことだ」  次の瞬間、Dは軽々と鞍から台上に跳び移っていた。つい数時間前、猛烈な爆発にあった身にしては驚異的な回復力だが、左手の中にいる┬もの┴を考えれば当然すぎるくらい当然の行為だ。  うっとりと見つめるリナも知らぬげに、ファーンのそばに近寄ると檻の電撃スイッチを切り、ついでに電子錠まではずしてしまった。 「待て!」と人垣の最前列から治安官らしい制止の声があがったが、するすると滑った檻の扉を見て、金縛りにあっていた群衆がわっと悲鳴をあげ、後退する。  Dの背後で響くけたたましい音は、逃げだした村長が階段を転げ落ちたものであった。  檻からのっそりと脱け出した男へ、Dは白木の槍を放った。 「おかしな出会いだが、狩るものと狩られるもの、これも|宿命《さだめ》だ。来るがいい」  言いながら、肩の長剣へ手をかけようともしない。  男はゆっくりと右へ移動し始めた。右手が使えぬためか、左手一本で槍を支え、全身を殺戮の炎で灼き焦がしている。  何の予備動作もなく槍が閃光と化してとんだ。それが狙いたがわずDの胸を貫いたのを見て、リナは息を呑んだ。男がファーンに飛びかかり、腰のリベット・ガンを奪う。親指くらいの太さの銃口が宙を向いた。目にも止まらぬスピードであった。  Dは空中にいた。リナは超スピードで舞い上がった彼の残像を目撃したのである。  轟音とともに、高エネルギー|火薬《パウダー》は、五百グラムの鉄鋲を秒速六五〇メートルの火線に変えて、Dの心臓へ突進させた。  世にも美しい音を立てて、鉄鋲は跳ね返されていた。  長剣をかざして防いだと知る間もなく、頭上から薙ぎ落とされる白刃に、武器を握った手首が飛び、返す刃は深々と男の心臓を刺し貫いた。  血煙をあげて倒れる巨体には目もくれず、Dは立ちすくむファーンのもとに歩を進めた。  ぐいとその喉元に突きつけた血刀を握るのが左手だと知って、リナは眉をひそめた。相手の右肩が負傷したため、Dも左手一本で戦ったことが、少女にはまだ理解できなかった。 「望みは叶えた。今度はおれの注文をきいてもらおう」  低いが反抗を許さぬ声であった。ファーンの青白い顔がかすかに上下する。その真ん中に、Dの左手が突きつけられた。  たくましい掌の真ん中に赤く十字の線が入っているのを見て、ファーンの眼がかっと見開かれた。  数秒——殺気を孕んだ風が広場を横切った。  Dの手が下り、ファーンが安堵のため息をもらす。┬異常はなかった┴のだ。  不透明な緊張を打ち破って、群衆もまたざわめいた。 「さて、どうする?」  ひとふりして血痕を跳ね飛ばした長剣を、優雅に鞘へと収めながら、Dは台上から下の村長へ声をかけた。どうする、とは自分の扱いのことだろう。  村長は額の瘤を押さえたまま、青い顔で、 「さっきはああ言ったが……これで一応の目安はついたと思うのじゃ。もちろん、約束の報酬は支払う。ご苦労じゃった」 「よかろう」  Dは平然とうなずいた。 「ただし、村を出ては行かんぞ」 「なにィ!?」 「まだ調べねばならんことがある。それとも、追い出す理由があるかな?」  美しい顔を向けられて、今度は治安官が戦慄した。 「今のところは……ない」とようよう言う。「だが、おまえがいることで、村に何らかの不都合でも生じれば、その場で追放せねばならん」 「承知した。だが、ひとつ断っておく。この男が騒ぎの元凶ならば、血を吸われた女も今ごろ意識を取り戻しているはずだな。確かめた方がいい」  そして、Dとともに村長ら一行が納屋へ辿り着いてみると、残された女の胸には深々と白木の杭が打ち込まれ、赤く濡れそぼる白衣の裾からしたたる血潮を、納屋の土が不気味に吸い取っていたのである。 「誰の仕業だ?」  村長が呻き、天を仰いだ。 「村の誰だか知らんが早とちりしやがって。いくら気持ちが悪いからって、何も殺すこたああるめえによ」  ファーンがこう言い、上眼づかいにDを見た。 「おめえじゃねえのか。さっきの奴が元凶でねえとすれば、まだ稼げ……」  暴言は喉の奥で消えた。自警団長を一瞥した瞳を納屋の奥に戻し、Dは一同から離れて鞍やサドル・バッグを肩にかけ始めた。 「ま、待て。どこへ行く?」  と村長があわてて走り寄った。 「おまえは、この殺人事件の容疑者のひとりだ。勝手に村を出ていくことは許さん。女は今朝方までお前と一緒だったのだ」  治安官の声にも焦燥の色が濃い。  Dは無言である方角を指差した。  村長と治安官がそちらを眼で追い、向き直って言った。 「そうか。村はずれに使ってない水車小屋があるが」 「用があればそこにいる。報酬は後でもらいにくるぞ」  走り去るDを、男たちは茫然と見送っていた。  授業が終わって馬車に乗ると、校門のそばでカリスが待っていた。滅多にないどころか初めてのことだ。  知らんぷりして通りすぎると、あわてて追いかけてきた。 「待ってくれよ、リナ。一緒に帰ろう」 「なによ、あんた。急にあたしに親しみを感じたわけ? ティナやミリアに怒られるわよ」 「よしてくれ。向こうが勝手に言い寄ってくるだけさ」  図々しくも、まだスピードの出ていない馬車の踏み台に足をかけ、さっさと乗り込んでくると、甘ったるい二枚目は手綱までとろうとしてリナにその手をひっぱたかれ、不平面をつくった。 「余計なことしないで。降りれば」 「冷たいな。君と話がしたくて待ってたんだぜ。な、森へ行かないか?」 「森行って何するのよ。さっき、人前で手を握ったでしょ。ふたりだけになったら、何するかわかったもんじゃないわ。指一本触れたら突き落とすわよ」  面と向かってきっぱり宣言し、リナは言葉を呑み込んだ。  カリスのシャツの胸ポケットに収まったものが、眼の中で輝いた。  白い一輪の花。  朝の窓辺へ……まさか。 「ああ、これ。君のために摘んどいたんだ。ほら」  プレイボーイはめざとくリナの反応を見破り、先手を打った。 「………」  嘘よ、と言うには、気丈な少女はやさしすぎたかもしれない。花は白い手に渡っていた。 「森は今度にしよう」  カリスはささやくように言った。  十数分後、村長宅の門へと消えてゆく馬車を見送る少年の眼には、┬年齢┴にふさわしからぬ、奸智と自信に満ちた色が浮かんでいた。  家でリナを待っていたのは、村長の怒りであった。  閉めた途端、部屋のドアは開け放たれ、ふり向いたリナの頬が鳴るや、少女は床に打ち倒されていた。 「なにするのよ。痛いじゃないさ!」  来るべきものが来たと思っているから、反抗も威勢がいい。村長は激怒した。 「この……この馬鹿娘が……みんなの前でわしに赤っ恥かかせおって。……き、貴族を……吸血鬼をかばうなど……この……」  激怒のあまり充血しきった醜い老人の顔へ、リナは赤い舌を出して言った。 「貴族だろうと何だろうと、人ひとり、檻の中で|獣《ビースト》みたいに殺されるのを邪魔して何がいけないのよ。あの|男《ひと》が貴族だなんて保証あるわけ? ただの犠牲者かもしれないわ。だったら、好きであんな風になったんじゃないのよ。私が貴族の仲間にされたら、あんな死に方絶対にごめんだわ。自分が嫌だから他人にもさせたくないの。あなた、私を檻の中でファーンなんかに槍で刺し殺させる気?」  村長は眼の玉を剥き出した。喉仏が動いたが声は出ない。常識はずれの怒りのせいであった。  しかし、一気にまくし立てながら、リナもまた自分の主張に疑惑を感じていた。貴族を檻に閉じ込めて嬲り殺しにするのが、どうしていけないんだろう。  リナが生まれる前、貴族の一団が村を襲い、二十人近い犠牲者が出たという。父が娘の、夫が妻の胸に杭を打ち込んで悲劇は幕を閉じた。以後、生まれた子供たちがきかされるのは、血涙とともに語られる愛するものたち同士の悲劇であり、呪いにも近い貴族への憎悪であった。苛酷な辺境の生活は、貴族を虐殺すべき凶獣と見なすよう、人々の心に培っていった。万が一、生きて捕らえられでもしたら、今日のような事態を迎えるのは、誰が考えても当然だったのである。 「き、きさまは……貴族の味方をするのか……この親不孝もの……許さん……許さんぞ」  村長の眼つきは狂人に近かった。 「何が親不孝なもんですか」とリナは反駁した。「あなたが私を養女にしたのは、私の頭の中身を知って、『都』へ送り出すためじゃないの。村への見返りを期待してね。そればかりじゃないわ。何も知らない私に手を出して。今でも毎晩、部屋へ忍んでくるのは誰よ? 貴族だって、あんな|獣《けだもの》みたいな真似はしないわ。あなたの指に触れられただけで、私は総毛立つんだから!」  沈黙が降りた。老人の顔が急速に白ちゃけていくのを、リナは不気味な想いで見つめた。 「そうか……触られるのも嫌か……よかろう……こいつで触ってくれる」  村長の右手に黒い鞭が光った。口の端からよだれが糸を引き、眼が笑っている。身体の中に潜んでいた黒いものが突如表面へ噴出したような異常さであった。  リナが窓の方へ身を翻すより早く村長の手がシャツの襟を捉え、激しい音とともに引き裂いた。 「やめて。気でも狂ったの! 馬鹿!」  怒りの抗議を鋭い打撃音が悲鳴に変えた。転倒したリナの背にみるみる青黒い筋が浮かび上がり、音が鳴るたびに数を増した。  喉元まで込み上げる絶叫を必死で押し隠しながら、リナは耐えていた。こんな男に負けてたまるかという想いがあった。  白い花のことを考えようとした。  表情が和らぐのがわかった。  村長が鞭を捨て、背後からのしかかってきた。  赤黒い舌で肌の傷をめる。 「やめて」リナは身悶えした。 「そうはいかん」と村長は、抗う手を排除し、ふくよかな乳房を揉みながら言った。「痛いか……痛いじゃろう……今、わしが慰めてくれる。この舌で全身をな」  首筋を生ぬるい感触が這い、リナは激しく身をよじった。若い身体の反抗を腕の中で楽しみながら、村長は言葉を続けた。妄執が凝固したような声であった。 「このまま抱き殺してやってもよい。村を追放するのもたやすい。だが、わしにはできん。おまえは『都』へ行き、村のために尽くすのじゃ。マイヤー教師は消え、クオレはファーンが引き取った。一生、頭の足りん小間使いで終わるじゃろう。しかし、お前だけは別じゃ。わしはお前を捨てられん。そのかわり、お前もわしからは離れられん。村を出ていく日まで、こうして可愛がってくれる」  老人の口がリナの首すじを強く吸った。してはならない行為であった。こらえ切れず、リナは絶叫を放った。首すじのキス・マークは貴族の口づけを連想させるため、夫婦間でも禁忌とされている。老人の心の残虐性は貴族そのものであった。 「やだ、やだ、やめて。お願い!——D!」  必死の叫びだった。  老人の唇が離れた。さも苦々しげに、 「ほお。そうか。あの若造をなあ——だが、奴はもうおらん。|馘《くび》にしてくれたわ。今では、村の水車小屋にひとり住まいよ。あのような貴族の血を引く流れものにはふさわしい場所じゃ」  リナの頭が前へ沈んだとき、老人は少女を床に押し倒そうと、いったん両腕の力を抜いたところだった。頭はそのままふり戻り、鈍い音を立てて老人の鼻面に激突した。  ひい! と叫んでひっくり返る。押さえた指の間から鮮血が噴き上がった。 「このお。よくもやったわね」  リナはテーブルの上の花瓶を取り上げるや、起き上がろうとする村長の頭部へ叩きつけた。火龍の肋骨でつくった容器は軽いが、鋭い刺が四方に露出している。おびただしい破片が頭部に突き刺さり、老人の顔を水と鮮血で染めた。ぎゃっとひと声叫んで、再びもんどりを打つ。  リナの血はたぎっていた。形勢逆転である。楽しいったらありゃしない。急所も蹴とばしてやろうかと足をあげ、さすがにそれは断念した。 「ベーだ。当分帰ってきませんからね。頭の傷が悪化して死んじゃえ!」  さわやかな悪態が、威勢よく閉じたドアの向こうから流れてきた。  リナは馬車で水車小屋へと向かった。ここ数日人通りの少なかった道も、あの男が倒されたことでみな安心したのか、いくつもの顔が闇雲に突っ走る馬車を驚いたように見送った。  二十分ほどで到着したが、古ぼけた今にも崩れ落ちそうな小屋には、水車の軋みと、水力モーターの低い唸り声しか存在しなかった。Dの荷物もない。  もう村を出てしまったのだろうか。  不安が急速にリナの気をしぼませた。家を出るときは感じもしなかった冷気がしんしんと毛穴から沁み込んでくる。見上げれば、空はまだ暗い。  世界は恐怖に満ちていた。  リナは小屋を出た。  頭上で風が鳴った。春の気配を含むはずのそれは、思いもかけぬほど冷たかった。皮のコートの襟や袖口から侵入し、剥き出しの背中を刺す。 「もう。やんなっちゃうなあ。家に戻ろうかなあ。でも、また殴られんのやだし。どうしよう」  ぶらつきながら考えることにして、リナは馬車へ戻ると備えつけの道具入れから護身用の短針銃を取り出し、小道を歩き始めた。  恐怖のもとはあの男だという想いがやはり心のどこかにあった。血を吸われた夫人が殺されていたことはまだ知らないし、根が豪胆にできてもいる。  水車小屋の影も見えないところまで来たとき、風が名前を呼んだ。  ふり向いたが、周囲に人の気配はない。  ようやく芽吹いた草が風になびいているばかりだ。  武器を握る手にやや力を込め、歩き出す。  十歩と行かないうちに、  リナ。  今度はきき違えようのない響きであった。 「誰よ、どこにいるの!?」  ふり向いた叫びに風が応じた。  リナ、リナ、リナ。 「どこだってば。撃つわよ」  矛盾した言葉にも気づかぬ脅えが少女に取り憑いていた。  眼醒めろ、リナ。  風が言った。  きき覚えのある声だった。リナは夢中で記憶を探った。  まだ、わからんのか、リナ。眼醒めろ、眼醒めろ。  声は四方で舞った。足元で笑い、耳元でささやき、頭上で怒号した。  リナ、リナ、リナ。 「ええい、もう! 正体不明のわからんちん」  撃つあてもなく短針銃が上がったとき、ひときわ強烈な風がリナの眼を叩いた。あっと思う間もなくバランスが崩れ、確かにかたわらの土手へついたと思った手は何の抵抗もなく宙を流れて、リナは頭から奈落の底へ転落した。  衝撃からすると大した高さではなかったようだ。  背後を見上げた眼に、二メートルほど頭上の丸い穴が見えた。そこまで土が盛り上がり、傾斜をつくっている。なんとか登れそうだと判断して、リナは胸をなで下ろした。  リナ。  声が呼んだ。まぎれもない男の声が、今度はずっと近くで。  視線を前方に据え、リナは驚きに包まれた。  異様に広い空間——地底の広場であった。奥は闇に隠れているが、頭上の穴から差し込む光で、かなりの広さまで見てとれた。  その闇と光の境界線に、灰色の影が立っていた。声の主であろう。 「痛たたた……」  立ち上がりかけ、リナは腰を押さえた。必死に平静を装い、声をしぼり出す。 「あんた、|一昨日《おとつい》の|男《ひと》ね。やっぱり、今朝のとは別人だったんだ——今度は私の番? 近寄ったら撃つわよ」  短針銃を向けたが、影は動じる気配もなかった。低く重く—— 「わからんか、ここを見て何も思い出さないか?」 「さっきから何よ。おんなじことばっかり言って」リナは腹を立てた。「穴なんかに落っこちたの初めてよ。何も思い出せるわけないでしょ。それより、手を上げなさい。撃つわよ」  影の片手が上がった。あら素直ね、と感心したら、それは大きくふられた。 「見るがよい。この場所を。この┬研究室┴を。思い出せ。——┬十年前のこと┴を」  ようやく、リナは自分の眼前の光景が、何かの部屋の内部だということに気がついた。石畳の床には瓦礫が山を成し、破壊という名の風が吹き荒れたことは一目瞭然だが、倒れたテーブルや、闇の奥にたたずむ巨大な装置らしき影は、男の言葉に偽りのないことを示していた。  しかし、どこかおかしい。  リナのいるところは明らかに土中の地面なのに、部屋らしい空間との境がきわめて不明瞭だ。  手を伸ばせば届きそうな┬そこ┴と、実は途方もないへだたりがある——そんな気がした。  だが、今リナを驚愕させたのは、別の事実であった。Dのコンピューターに素顔をさらした灰色の影——見たこともない┬そいつ┴が、十年前のことを知っている!? 「思い出せぬか、リナ。ならば、これはどうだ?」  リナの驚きをよそに、影が手をふった。  闇の彼方が急に波立った。虚無の空間を不意にある存在が占め、闇を押しのけてやって来た。形容を絶する異形のものたち。 「どうだ、リナ、どうだ?」 「し、知らないわよ、こんなもん、あ、あ、あっち行け——」  声が途切れた。脳髄を白いメスが切り裂いたように、記憶の断片が炎を放った。  そうだわ、ここは、——そして、彼らは……  それは唐突に消えた。 「わからない。そばへ来ないで!」  不安と安堵が絶叫にこもり、指がひとりでに動いた。  高圧ガス特有のため息のような発射音を立てて、微細なタングステンの針は影の心臓を貫いた。影は声もなく笑った。  異形のものたちが前進した。  リナの瞳が、見てはならぬ深淵を覗き込んだもののように大きく見開かれた。 “彼ら”が名を呼んだのだ。  リナ、と。  閃いた。もう一度。切開部から差し込む光。  ——┬この人たち┴は——!?  突然、影が頭上を振り仰いだ。  ┬もの┴たちがざわめいた。ただし、声はきこえない。  邪魔が入った。また会うぞ、リナ。  遠ざかりゆく影が言った。  これまでとは異質の恐怖がリナを襲った。短針銃を放り出し、後をも見ずに傾斜をよじ登る。二メートル先の穴が、手が届いた途端に消えてしまうような気がした。  森が待っていた。  リナが這い出たのは、土手の斜面に開いた直径五十センチ程度の小穴であった。周囲には草が生い繁り、よほど眼を凝らしても発見は難しい。  リナは素早く身体の泥を払い落とした。  大きく深呼吸してもと来た道を辿り始める。四、五十メートルも歩いた頃、後方から馬蹄の響きが追いすがってきた。  邪魔とは┬これ┴のことだろうか。とすれば、数百メートル彼方の、しかも地上の音を影はきき分けたことになる。  道の脇に寄ってふり向いたリナの顔に喜びの色が湧いた。 「D!」  凄絶な美貌が馬上からリナを見下ろしていた。 「何をしている。こんなところで?」  リナはためらい、すぐに答えた。 「あの……あなたを探しに来たの。今晩、泊めてくれない?」 「……?」  村長と喧嘩して出てきたとリナは告げた。原因も細かい様子もきかず、Dは無言で手を出し、馬の背へ引き上げてくれた。馬が歩き出す前に、 「あのさ……あのさ……」 「なんだ?」 「腰に手ぇ回してもいい?」 「回さなければ落ちるだろう」 「うん」  ついでに、ほっぺたも背中に押しつけた。広くて硬い、たくましい肌ざわりがコートを通して伝わってきた。ダンピールの身体は人間より遥かに冷たいときいていたが、そんなこともなかった。温かい。  いつの間にか、涙が頬を伝わった。 「泣いているのか」  Dが尋ねた。道を訊くような調子だった。 「いいじゃない。誰だって哀しくなるときはあるんだから。何度も同じこと訊かないでよ」  リナには、この青年が他人の身について質問するなど、奇蹟に近いことがわからない。  Dは沈黙した。 「あのさ、D。あなたは廃墟の方から帰って来たでしょ。また、出掛けていたの?」 「そうだ。別の入口を探しにな」 「別の? ┬あそこ┴は?」 「つぶされた。もう誰も入れまい」  かすかに首をふってから、 「もう、みんな忘れろ。勉強しなくてもいいのか」 「ふーんだ」リナはDの肩を頭で叩いた。「いまさら勉強しなきゃならないような頭、持ってませんようだ」 「そうか、天才少女だったな」 「あたりあたり」  じき馬は水車小屋の前に着き、ふたりはかなり太いせせらぎにかかる小橋をわたって小屋に入った。夕暮れが近いせいか風に冷気がこもってはいるが、白い季節の厳しさは遠い。  不思議そうな表情で背後から見つめるリナにDが訊いた。 「流れ水を渡れるのが不思議か」 「うん——ええ。だって、ダンピールなんでしょ?——あらら、いけないこと言っちゃったかしら」 「確かに水は苦手だ。腰くらいの深さで溺れた貴族たちもいる」 「どうしてかしら。不思議だわ、貴族の生理って」  あどけない顔や声とはおよそ無関係な質問だった。なぜか、リナは知りたかった。  答えはなく、Dは無言で埃だらけの小屋の隅に、馬から運んだ鞍と荷物を下ろし、黒っぽい、掌大の包みを取り出した。出ている紐を引っぱると、包みはみるみる広がり、柔らかそうな寝袋になった。 「これで眠るがいい。保温装置付きだ。風邪をひかなくて済む」 「でも、あなたはどうするの?」 「おれは外で休む。土の上の方が性に合うのでな。気にするな、┬それ┴は一度も使ったことがない」 「でも——」  言いかけて、リナはDが外に気を集中しているのに気がついた。 「お迎えが来たようだぞ」 「やだ。断固帰らないからね」  まもなく、十騎近い馬と男たちが小川の手前に到着した。村長と治安官、あとはファーンを頭にする自警団員たちである。どの顔も妙にこわばっている。これからとるべき行動と、それを阻止する相手への想いがそうさせるのであった。  相手は小屋の前に立っていた。  胸のペンダントの青いきらめきが男たちを不安にした。馬も何か感じるのか、いななきをやめようとしない。男たちの身体は馬上で小刻みに揺れた。 「用件をきこう」  Dが静かに言った。午後のおだやかな陽差しにふさわしい口調だが、馬たちは一斉に動きを止めた。恐怖に凍りついたと、騎手たちに理解できたかどうか。 「わかっとるじゃろう」と黒い帽子をかぶった村長が片手を突き出し、小屋の窓を指した。「リナを連れ戻しに来たのじゃ。隠しても無駄だ。さっさと返さんと、痛い目を見るぞ」 「おれは構わんが、本人が何と言うかな」  途端に木の窓が左右に開き、リナが顔を出した。用意のいいことにもう舌を出している。 「ベーだ。誰が帰るもんですか。私は当分ここにいますからね。野外のサバイバル訓練よ。邪魔しないで下さい、パパ。——お顔が腫れてらっしゃるようね」  最後は特別嫌みったらしく言ったからたまらない。村長の紫色に膨れた顔が五倍くらい赤みを帯びた。横を向き、 「何をしておる、治安官。父親が娘を連れ戻すと言っておるんじゃ。腕ずくでも連れて来んか!」 「しかし……」と治安官はためらった。他の男たちも顔をそむけた。彼らは全員、広場でのDの剣技を見たものたちであった。 「——しかし、嫌だというものを無理には。それに、一昨年でリナの親権は切れているはずだ」  親権解除——すなわち一人前の責任能力を有すると認められるのは、辺境では平均十五歳である。環境が自立を要求するのだ。 「えい、この役立たずめが。こんな混血の渡りものに娘を傷ものにされたらどうする気じゃ。き貴様は馘だ。村へ戻ったら、即刻、会議で解任してくれる」  治安官は肩をすくめた。 「ええい、誰か……」 「おれに任せてもらおう」  自信たっぷりな声でファーンが言い、ゆっくりと馬を降りた。  両腰のバスケットに軽く手をかけ、落ち着いた足取りでDと向かい合った。 「いずれ、こうなると思ってたぜ」  くぐもった声である。 「いまさら、引き渡すなどと|吐《ぬ》かすなよ」  Dは動かない。風の|詩《うた》を聞く青年詩人の風情であった。  せせらぎの音さえ停止したように思われた。 「D、気をつけて。篭の中身は護衛獣よ!」  リナの声が緊張を生み、一気に爆発させた。  Dの右手から白色の閃光がきらめき、またも縫いつけられたバスケットは、ファーンの腰で分解した。  奇怪な蜘蛛と稲妻を放つ雲——二匹の妖獣が地に降りる。蜘蛛の脚が無傷なのは、再生したか、別の一匹であろう。  奇怪な言葉でファーンが叱咤した。  紫のスパークがDの立っていた空間を貫いて小屋の壁に火花を散らし、跳躍しざまDの放った針は、┬妖物ども┴との中間位置で静止していた。びらびらと吹きつける白い糸に絡め取られたと知った刹那、Dの右手で長剣が風を薙いだ。 「おお!」  ファーンは絶叫した。大巨獣ばかりか、灰色の影さえ捕縛した粘着液が、木綿糸のごとく切り裂かれるのを彼は見たのである。  しかし、一気にせせらぎを跳び越えようとしたDの身体は大きく崩れ、次の瞬間、水飛沫をあげて腰まで流れにつかっていた。  水中から飛び出た一本の触手が鞭のごとく足首に巻きついたとは、誰が看破できたろう。  いや、Dが落下した刹那、数本の同じ触手が躍り出、両手首をぎりぎりと締めあげたのである。何やら縞模様のついた甲羅みたいなものが、Dの前方で流れを撹拌した。 「やっぱり、水の中では勘も鈍ったな」  ファーンが歯を剥き出して笑った。 「おめえ相手だと知ったとき、家に戻って水中用の護衛獣を一匹放しといたのよ。ダンピールも貴族並みに水にゃあ弱いそうだからな。さ、そのまま溺れ死ぬか、電気雲のスパークで感電死するか、好きな方を選ぶがいい」 「やめて。私、帰ります!」  リナは絶叫し、雲と蜘蛛は水辺に迫った。 「やめろ、ファーン」 「構わぬ、殺せ!」  治安官と村長の叱咤を、驚天の光景がかき消した。  身動きならぬDめがけて放たれた紫の光条を、水中から跳ね上がった楕円形の甲羅が跳ね返したのである。  今度こそ、全員の眼がかっと剥き出された。水中に転倒していたはずの美青年が、その身を捕縛する獣もろとも立ち上がったとは、誰が信じられたろう。  引きずり込んだものが、引きずり出されたのだ!  五十人力と言われる貴族の怪力に思いあたった全員の眼前で、Dの左手が閃いた。五指を伸ばしたひと薙ぎは、それに触れたすべての触手を切断し、Dの身体は魔鳥のように宙に舞った。  銀光が紫の光を跳ね飛ばし、雲の身体を両断するや、目にも止まらぬ反転は、降り落ちる糸の網ごと巨大蜘蛛の首を|撥《は》ねていた。  観客たちの耳にせせらぎの音が甦った。  優雅なひとふりで|血脂《ちあぶら》を振り落とし、Dは何事もなかったように背を向けた。  その後ろ姿に声をかける気力も失せた男たちへ、 「やーい、恐れ入ったか。私の用心棒はこんなに強いんだぞ」  喜色にはち切れそうなリナの声が投げつけられた。  無作法な訪問者は立ち去った。  夜の闇が樹々の間に染み渡り、白い月が出た。  旅行用の小さな電子ランプの上で、リナは合成コーヒーを沸かした。馬車の備品である。ランプはDのものだ。直径五センチ、高さ十五センチほどの銀色の円筒だが、照明の他にストーブと保温器、冷凍装置の役目まで果たす。調理台としての用途は言うまでもない。旅人たちにとって、かさばる品は禁物なのである。  吸熱シリコンのポットを器用に下ろし、同じ素材のカップ二つに注いで、窓辺に立つDに声をかける。 「できたわよ」 「いらんと言ったはずだ」 「駄目。飲みなさい。温まるから。わあ、いい月」  Dのかたわらへ行き、無理やりカップを握らせた。 「乾燥肉も切るわ」 「いらん」 「何にも食べないでどうする気よ」と言いながら、リナはあっさり提案を引っ込めた。「まあ、いいわ。私も今日、食欲がないんだ」 「腹でも痛いのか」  ふり向かずDが尋ねた。 「さてね。いつもはこんなじゃないんだけど——でも、凄いのね、ダンピールって」 「………」 「さっき、川ん中の護衛獣の死体を見てきたのよ。あの触手、まるで何かに噛み切られたみたいな切り口だったわ。びっくりしちゃった」  Dは無言だった。リナはそっと眼を閉じ、窓から入り込んでくる月光草の香りをかいだ。樹々の梢で風が歌っている。Dはそれを聴いているのだろうか。 「D——変わった名前ね。何のD? |悪魔《デモン》、|死《デス》、|危険《デンジャー》——どれでもぴたりと合いそうだけど」 「君は、明日戻れ」  Dがぼそりと言った。 「やーよ」 「おれの素姓は知ってるはずだ。誰かが審査官に伝えたら、『都』は夢になるかもしれん」 「いいもん」リナはくっくっと笑って、Dの左腕をとった。「だったら、あなたと一緒に行く。ハンターのお嫁さんなんて、スリル満点じゃない?」  さすがにあきれ顔でふり向いたDへ、 「冗談よ、冗談。連れてってくれるだけでいいわ」 「いい加減に寝ろ。おれは朝早く出る」 「お昼、用意して待ってるわ」リナは人差し指と親指で輪をつくった。ついでにウィンクする。 「しっかり頑張ってきてね——┬あなた┴」  Dはため息をついた。凶獣や貴族相手に一度もついたことのない長いため息であった。全身が氷のメカニズムでできているようなこの青年にも、調子が狂うときはあるのだろう。 「ねえ、D。あなた、どこから来たの?」  リナが真顔で訊いた。 「どこから来て、どこへ行くの? 貴族は? そして、人間は?」  Dはふり向き、リナを見つめた。少女の言葉の中にある微細な不安を聴き取ったのだろうか。 「難しい質問だ」 「わからない? 二つの世界を知ってるあなたでもわからない? 昼も夜も生きられるってどんなことなのか、人間であるってどんなことなのか、貴族であるってどんなことなのか——わからない?」 「どうして、そんなことを訊く?」 「知りたいの。教えて」  ふたりの周りを月光草の香りが舞った。  Dは無言で戸口に移り、片方の壁に身をもたせかけた。リナは地面から三十センチほど浮いた上がりがまちに腰を下ろした。  夜の世界がふたりの眼の前にあった。 「貴族だということは、多分、夜の中に生きることだ」右手に長剣、左手に湯気の立つコーヒーカップを手にしたまま、Dは静かに語り始めた。「現在——いや、貴族たちの科学が最盛期を迎えた|時代《とき》でさえ、夜の闇が持つ潜在的なパワーや貴族に対する素粒子|段階《レベル》での影響力は解明の糸口も掴めなかった。貴族たちの肉体の不死身、陽光と杭の一撃を食わねば永劫に生き続ける不老不死の秘密、また、その一撃も心臓に限らねば何の効果も持たない謎。地球の歴史上、生命ラインという面から見ればまさに究極の到達点に達した彼らが、実は誰よりもその能力の神秘を探ろうと煩悶していたとは、皮肉という他はあるまい」 「遺伝子工学の分野から手がかりは掴めなかったのかしら? 貴族たちのコンピューターには、あらゆる遺伝子の情報が整理されていたというけれど」 「遺伝子の持つ個々の情報解読は、すでに五千年以上前に終了していた。しかし、問題はそこにはない。細胞の老化を防ぐ遺伝子が発見されても、彼らはすぐ、こう唱えただろう。“なぜ、このような遺伝子が生まれたのか?”と」 「どこから来て、どこへ行くのか。——それはやはり永劫の命題なのかしら。貴族にとっても人間にとっても。でも、さっきあなたの言った闇の力とそれとは、一体どんな関係にあるの?」  Dはうなずいてカップを口にあてた。リナが笑っているのに気づき、ややしかめっ面でひと口飲む。 「おいしい?」リナが浮き浮きした声で尋ねた。 「ああ」 「よかった」  咳払い一つして、Dはまた話し始めた。 「貴族の生体機能が闇そのものを中心にして成立することは衆知の事実だ。そこから一つの仮説が浮かんだ。夜の闇——陽が翳れば生まれる単純明快な存在に、貴族たちの能力、すなわち遺伝子を決定づける要因が備わっているのではないかと。つまり貴族たちは、闇そのものの持つ幻妙な情報を遺伝子として取り込んでいるのではないか、ということだ」  リナの瞳は輝いていた。未知という名の重い扉をこじあけ、その隙間から差し恵む真理の光を眼にしたものだけが持つ期待と不安に。恍惚に。 「それは闇の遺伝子ね」 「そうだ」 「その構造さえ解明できれば、貴族の謎は明らかになる。“どこから来て、どこへ行くのか”——そして、同じ答えが人間についても。こんな仮説は生まれなかったの、D?——人間には光の遺伝子が備わっている、と」  端正な横顔を月光が白く浮き立たせた。風の歌、草の香り。 「その通りだ」とDは言った。「人間であることは、光の中に生きることだ。個々の生命レングスで考えた場合、人間は貴族に遠く及ばない。生物学的に見てもあまりに脆弱だ。しかし、種全体のポテンシャル・エネルギーからすると——」 「光は闇にまさる」  リナが小さくつぶやいた。  それは一つの|運命《さだめ》であった。 「でも、今度の貴族たちは……」  言いかけて、リナは口ごもった。  胸の裡で誰かが叫んでいた。┬それ┴を口にするな、と。その暗い声はどこかで自分の運命につながっているような気がした。 「陽の下を歩く貴族か……」  Dはもう一度カップを口に運び、リナの方を見つめた。なぜか┬励ますように┴首をふって、 「有り得ないことだ」  リナの瞳に前触れもなく光るものが盛り上がった。それが堰を切って流れ出す前に、リナはDの腰にしがみついた。嗚咽が両肩を波打たせた。  何が哀しいのかよくわからなかった。何が怖いのかもわからなかった。  ひとりだけで夜の道を歩いているような心細さがあった。夜は永劫に明けないのだった。  Dがカップを床に置き、そっと髪をなでた。  村を出たい、とリナは必死に想った。この|男《ひと》と一緒に『都』へ行きたい。いつまでも、どこまでもふたりきりでいたい。  風の歌が聴こえた。  ふたりは長いこと動かなかった。  不意にDの身体に緊張が走った。  すがりついた姿勢のまま、リナは床に倒れた。  Dはせせらぎの淵に立っていた。  周囲の光景に変化はない。  Dの感覚だけが変わったのかもしれなかった。  ——どうした、まだ来ぬか?  あの雨の晩の「気配」であった。  わしは待っているぞ。あそこでな。  ——あそことは何処だ。廃墟の持つ意味は?  言葉に出さず、思考もせずにDは尋ねた。  それだけが唯一の会話法だった。  失敗だったかもしれん、と声の「気配」は言った。だとすれば、すべてを抹消しなければならん。時間はあまりないぞ。わしは待っているのだ。  ——何を、誰を待つ? 待つとはどういう意味だ?  答えはなかった。  早く来い。わしは行かねばならん。ここまでは長かったが、これから先はもっと長い。もっと……もっと……  Dの身体のどこかで、「気配」がふっと消えた。  やはり、廃墟か。  Dは小屋の方をふり返った。  戸口にリナが立っている。  Dの眼が細まった。  恐怖とも怒りともつかぬ表情がリナの顔を占めていた。 「どうした?」  近づいて訊いた。  リナは首をふった。 「何でも……ないの。……あなたが急に行っちゃって……ちょっと、怖かっただけ」  少し間を置いてDはうなずいた。 「もう休みたまえ」 「そうね」  リナはあっさり小屋に戻り、寝袋に入った。温かい。外気と体温の変化を読み取り、最も眠りやすい温度を維持してくれる保温センサーのおかげだった。  Dの気配は絶えている。大地に耳をつけ、闇と風の歌を友に眠るのだろうか、とリナは思った。それとも、夜は眠りにくいのだろうか。  ダンピールって何だろう。  閉じた瞼の奥に灰色の影が浮かび、不気味な声が言った。  思い出せ、十年前を。  小さく、リナは首をふった。  もう一つの声。  すべては抹消しなければならん。  リナには、「気配」の声がきこえたのだった。 [#改ページ] 第六章 たそがれの人々  周囲は真紅で満たされていた。  塗り込められているのは、飢えと乾きだった。それは、音を立てて一つの「意志」を誘っていた。  意志は反抗を試みた。これまで蓄積してきたもの——愛、希望、やさしさ、夢、哀しみ、そして怒り。人生が育くんできた「人格」という名の意志。誘いへの答えは常に否だった。  しかし、時は近づきつつあった。  真紅の包囲は執拗に「意志」を侵蝕し、強靭な「理性」の壁を本能の愛撫で懐柔しようと励んだ。  壁は徐々に崩れていった。  崩れた破片はたちまち飢えと乾きに同化した。剥ぎ取られる感覚に「意志」は甘美なものを感じた。本来所属すべき世界を見つけた歓喜に近いものであった。 「意志」の核はなおも抵抗した。  色は毒々しさを増し、一気に意志を呑み込もうと躍りかかってきた。  凄絶な戦いが続いた。  溶けていく。吸収される。  なりつつある。  ……に!  眼をあけると、Dが小屋を出ていくところだった。何かを取りに来たらしい。窓や壁の破れ目から差し込む陽はまだ蒼い。早朝である。 「もう、出かけるの?」  眼をこすりながら訊いた。Dは足を止めてふり向いた。 「まだ早い。寝ていろ。今度起きたら帰れ」 「やあよ。しつこいんだから」  リナは寝袋から這い出しながら言った。 「寒くないのか?」  Dの声に、リナは自分がブラウス一枚しか着ていないことに気がついた。  そう言えば、風は結構冷たいのに、それほど寒さは感じられない。 「今日、あったかいんじゃない。私、もともと暑がりだし」  返事に満足したのかしないのか、気にとめたふうもなく、Dは外へ出た。ひとつ┬のび┴をしてリナも続く。 「また廃墟? 何にもないわよ、きっと」  Dは無言で鞍を乗せた。 「待ってよ、私も行くから」 「いかん。家へ戻れ。そして学校へ行くんだ。審査官が来るころだろう」 「まだよ。あと二日あるわ」  リナは素早く計算し、二本の指を立ててふった。胸が軽くなるのを覚えた。あと二日でこの村と訣別できるのだった。  でも、とリナは思った。  あと二日後の明日。  本当に明日が来ていいのだろうか。 「お願いよ、D。邪魔はしない。足手まといになったらすぐに帰ります。一緒に連れていって。私、独りでいるのが怖いのよ」 「好きにしろ」  断られるかと思ったが、Dはうなずいた。 「ただし、勝手についてくるだけだ。君の都合など一切考慮はせんぞ」 「いいですとも。好きなときに置き去りにして」  リナは嬉々として馬車の方へ歩いた。 「忘れものがあるぞ」  Dが小屋の入り口に顎をしゃくった。 「?」 「おれが眠ってる間に誰かが来て置いていったらしい。おれ宛てではあるまい。風流な奴がいるものだ」  けげんそうな少女の顔が、あるものを認めて朝日のように輝いた。上がり口に置かれた白い小さな影。  一輪の花。  そっと手にとり、ブラウスの胸ポケットに収めた。見知らぬ配達者は、いつでもリナを見守っているらしかった。 「君は独りぼっちではなさそうだ」  相変わらず抑揚のないDの声さえ祝福しているようにきこえた。 「不幸があったら、哀しむものがいるぞ」  このとき、Dはすでに何かを知っていたのかもしれない。  リナの考えは千々に乱れた。 「学校が終わったら、また、ここへ戻って来てもいい?」 「好きにしろ。だが、おれが無事に戻って来れるとは限らん」  リナは沈黙した。静かな言葉は、その裏に少女が想像もできぬ修羅の世界を秘めていた。  リナは首をふった。必死で、何度もふった。 「大丈夫。あなたはきっと帰ってくるわ。私、ずっと待ってる」  それは自分に向けた言葉だった。  Dは無言で馬首を巡らせた。  ブーツの踵が脇腹を蹴り、馬は一瞬の停滞もなく走り出した。  蹄の響きが森の彼方へ消えてから、リナは馬車の荷台へ上がり、荷物入れの太陽時計をのぞいた。  登校するには大分早い。しかし、独りでいる不安にも耐えられそうになかった。  どうして昨日のことをDに話さなかったのだろうと思った。奇怪な穴の中で遭遇した影と異形のものたち。そして、あの言葉。  十年前の忌むべき出来事の影が、沈潜していた分だけ重さを増して、両肩にのしかかろうと身構えている。  ふと、リナはクオレのことを思い出した。  過去の影は彼にも何らかの行動を示しているのではないか。  行ってみよう。  居場所は村長からきいている。  リナは馬にひと鞭あてた。  細い道の上で、Dは急に馬を停め、周囲を見回した。  変哲もない森の道である。白い雪痕がところどころに残る草の間を、茶色の線がどこまでも続いている。吹きつける朝風にも異常はない。  にもかかわらず、Dの感覚が、ダンピールのみが持つ超自然の知覚が、進むべき方角の違うことを示していた。  昨日も通った道のどこに異常があるのか。  少しためらい、Dは再び道を蹴った。  一分ほど走って停まった。  先刻と寸分違わぬ光景が眼前に広がっていた。  茶色の線と草と樹々。 「堂々巡りはやめたがいいぞ」  左手が忠告を発した。 「やはり、空間を閉じられたか」とDはつぶやいた。「このままでは、未来永劫一本道を走り続けねばならんな」  ある二点間を選んでその両端を結合すれば、中にいるものは永遠に閉ざされた空間内だけを移動し続けることになる。敵はいつ、そんな技術を身につけたのだろう。 「さて、どうする?」  声が愉快げに訊いた。 「出るしかあるまい」 「ほお。どうやってだ? 外からならともかく、閉鎖空間を内側から破った例など、貴族の歴史を通じてないぞ」 「あの廃墟の実験室に閉鎖用磁気フィールドがあった」  Dは馬から降りながら言った。 「丘を見てもわかるように、┬普通の人間┴用だった。おれに┬半分だけ┴突破できないことはあるまい」  声は沈黙した。動揺と脅えのこもった沈黙であった。 「わしの|主《ぬし》ながら、とてつもないことを考えつく奴だ。┬破るとき┴、わしは離れておるぞ」 「好きにしろ。それまでは役に立ってもらわねばならん」  手近の木に馬をつなぎ、Dは森の中に入った。歩きながら枯れ枝を拾い、小枝を折っては肩に担いだ。  十分ほどで道に戻ったとき、両脇には限界までの量が抱えられていた。  膨大な木切れを焚き火でもするかのように地面に積み、続いてDはなんのつもりか土を掘り起こし始めた。剣や針など使わない。左手の五指を伸ばし、無造作に地面に突き立てては、シャベルのように|土塊《つちくれ》をえぐり、┬薪┴のかたわらへ積んでいく。  ただの土ではない。おびただしい重量に踏み均された黒くて硬い土である。それにやすやすと手首まで埋める手刀の強靭さを、何と形容すればいいのだろう。みるみるうちに、人ひとりが優に横たわれるくらいの穴が穿れ、その分量の土がたまった。 「用意はできたぞ」と手の土を払い落としながら言う。 「まだじゃ」と左手が抗議した。「地水火風——まだ水が足りん。おまえを復活させるだけならともかく、閉鎖空間破りとなれば、こりゃ、どれひとつ欠けても成功は覚つかん」 「懸念には及ばん」  Dは土塊の前に立ち、コートとシャツの袖をめくって、左の前腕を風にさらした。手首のやや上、動脈の走っている部分に右手の人差し指をあてる。持ち主にふさわしい優雅な爪と指であった。それが、どんな技を使ったものか、すっと横に走らせただけで白い肌に太い朱線が走ったと思うや、その傷口からは鮮血が溢れだし、あたかも滝のように黒い土塊の上へたぎり落ちたのである。  午後にも遠い、陽光あふれる森の小道で、これはまたなんと奇怪な作業であろうか。  鮮血が十分土塊に染み込むのを見届け、Dは再び同じ指で傷口を拭った。  血流は停止し、傷など跡形もない。  さすがに顔色はやや青ざめているが、自らの鮮血がこびりついた指先を、┬すい┴と口にくわえたのは、あまりにも不気味な栄養補給であった。  この幻妖な材料で、空間閉鎖という物理的現象にいかなる策を施そうというのか。 「生命を削って生命を産むか——」左手が呻くように言った。「なんとも悲惨な業だのう。しかし、それを平然とやるところがまたなんとも恐ろしい。さすがは……」 「よせ」  いつもより青く冴え、しかも、いま┬吸った┴滴のせいか妖鬼の相貌漂うDの言葉に、声は沈黙した。  薪の山から二本の枝を取り上げ、両手に握るや、Dは片方の先をもう一方の腹にあて、ぐいとこすり合わせた。さほど力のこもったとも思えぬ動作であったが、どちらの枝にも炎が点じ、枯れ木の山に投ぜられるや、たちまち凄まじい黒煙と炎が空気を震撼させたのである。  地水火風——すべて揃った。 「出番だぞ」  左手が炎へ伸びた。  炎の中へ。  風がどよめき、何を察したか、馬まで絶叫を放った。  見よ。天空を焼き尽くさんと燃え立つ炎の柱が、一本の細い線となってDの掌へ吸い込まれてゆく! 「火と風か——次は地と水だ」  青ざめた肌に妖艶とさえいえるつややかさを取り戻しながら、美しい声がつぶやいた。  ファーンの家の少し前で、リナは馬車を降りた。  礼儀に適った訪問をして無事で済むとは思えない。クオレと会う間もなく村長のもとへ送り届けられてしまうだろう。  で、非合法手段に訴えることにした。  家の塀が見えるところまで歩き、森に入る。塀に沿っていくと、十メートルほどで目標地点にぶつかった。塀の下側にリナがやっと通り抜けられるくらいの穴が口をあけている。ファーンの娘からきいた覚えのある非常用の脱出孔である。早熟なベスは、口喧ましい父の眼を盗んでは、これを利用して男友達と逢い引きに耽っていたのだ。  よいしょ、よいしょと胸の中で唱えつつくぐり抜けると、飼育小屋らしいプラスチック建造物の裏手に出た。少し先に母屋とその奥に納屋の屋根が見える。  早朝のせいか、人の声はまだきこえないが、あちこちの小さな建物から洩れてくる唸りや吠え声で護衛獣が目を醒ましているのはわかる。 「鼻が効いて、吠え声のでかい奴がいるとまずいわね。ま、噛みつかなきゃいいけどさ」  呑気なことを言うと、あたりに人気のないのを確かめ、リナは足早に納屋へと向かった。  くやしいが、村長の言う通り、ファーンのような男がクオレに母屋の一室をあてがうはずはない。  納屋は村長宅のものよりひと回り大きかった。閂がかかってない。|内側《なか》に誰かいる証拠だ。扉を押しあけると、理由はすぐにわかった。  むっと獣の匂いが鼻孔を刺激する。  護衛獣の飼育場も兼ねているのだ。早くに妻を失くし、ファーンとベスのふたりきりで世話をする割には、数が異常に多い。リナは首をかしげた。  小屋の四方が板で区分けされ——それも、超合金やガラス板、プラスチックと材質は様々だ。護衛獣の出す酸やら炎やらに耐えねばならぬからである。昨日見た大蜘蛛や、でかい殼を載せた全長二メートルに近いカタツムリの化け物、半透明のしきりの向こうで蠢く四足獣の巨体に、リナは吐き気を催した。ごおっ! と音がして、反対側の隅から炎が宙に舞う。 「もう。趣味が悪いったらないわね」  低い声でののしり、それでも奥へと進んだのは立派だ。怪物どもの巣窟を抜けるとすぐ、農具やら食料コンテナやらが積まれた空間に出た。  野獣の臭気は薄いが、妙に寒々しい。 「クオレ——」と低く呼んでみた。「クオレ、私よ、リナよ。いないの?」 「残念でした」  明るい声に、悲鳴をあげてふり返ったのは何故だろう。 「ベス——! やだ。驚かさないでよ。元気でいた?」  安堵の息をつくリナへ、級友は真っ白い長衣の襟を立てたまま近づいてきた。 「クオレならいないわよ。別のところで暮らしてるわ」 「別のって、お宅のパパが引き取ったのに」  ベスは笑った。近づいてきた。理由もなく、リナは後ろへ退った。  いつの間にか、部屋の隅にいた。追い詰められたような感じだった。  足に固いものが触れた。  ふり向いて、リナの顔がこわばった。それは棺であった。墓地から掘り出したものらしく、乾いた泥がこびりついている。干し草の束に隠れて見えなかったのである。 「ベス、どうしたの!? 誰か亡くなったの?」  言いながら、リナは半ば真相に気づいていた。 「きゃっ!」  悲鳴は、横へ移動しかけたくるぶしを冷たいものが掴んだためであった。棺の蓋がわずかにずれ、青白い手が覗いていた。  必死でもぎ放し、逃れようとする前方にベスが立ち塞がった。 「ゆっくりしていきなさいよ、リナ」  じっと見つめる血走った眼がリナをその場に釘づけにした。  背後で固いものが地に落ちる音。  ふり向いた。  棺の前にファーンが立っていた。  分厚い保温蛋白ベストに薄汚れたズボン——見慣れた服装が、かえってリナの理性を恐怖で押し包んだ。 「か、変わった所でお休みになるのね」  冗談めかした声も情けないくらいに震え、ファーンの口が笑いに歪んだ。 「こっちから出向くつもりだったが、よく来てくれたな。みな、喜ぶだろう」 「ちょっと。┬みな┴って誰よ? 私、クオレに会いに来たのよ。何処にいるの?」  リナは入口の方へ駆け出すタイミングを測りながら言った。 「彼も┬みな┴と一緒だ。じき会わせてやるさ」  ファーンはもう一度笑った。今度こそ唇の端にのぞいた二本の牙を見て、リナは必死にベスの名を呼んだ。  白衣の少女は牙を剥きながら、服のボタンをはずしていった。 「淋しかったわ、リナ。誰にも会えないで、とってもお腹がすいてたの。だって、父さんの血を飲んで以来、護衛獣のしか吸ってないんですもの。それに、父さんったら——」  白蝋の手が動き、白衣は地面に落ちた。  悲鳴をあげたくてもあげられぬ恐怖というものの存在を、リナは初めて知った。  クラスメートの首から下は、生きた人間の身体ではなかったのだ。少女の肉は青黒く干からび、ぐいと浮き出た肋骨の奥で、心臓らしいふくらみだけが不気味な鼓動を続けている。生命なきものの鼓動を! 「父さんに吸われたのよ」ベスは妖しく微笑んだ。「毎日毎日、あたしの首にキスしてたっぷり吸うの。前からあたしを欲しかったんですって。そのくせ、あたしにはちっとも吸わせてくれないのよ」 「……なんて……なんてことを……」  恐怖が恐怖を打ち消し、脱兎のごとく戸口へ走ったリナを、ベスの枯れ枝のような手が抱き止めた。  冷たい、月光のような息が首すじにかかった。 「あたしもあなたが欲しかったのよ。学校で、いつも気になっていたの。一度でいいからキスしたかったわ。今、してあげる」 「やめて」  もがいても、身体を押さえた腕には鋼の強さがこもっていた。 「いいでしょう、お父さん?」  もはや、飢えと欲情を剥き出しにしたベスの声であった。  ファーンは少し考え、うなずいた。 「┬みなさん┴はお怒りになるかもしれんが、ひと口ふた口ならよかろう。それに、放っておいてもいずれは、な」  意味ありげな言葉が、リナをさらに強い根源的な恐怖で打ちのめした。  いずれは、┬どうなる┴というのだろう。  にちゃにちゃした生温かい唇が首すじに吸いついたとき、リナの理性は完全に崩壊した。狂気が恐怖の壁を叩き破り、封じられていた熱いものが一気に噴出した。  信じがたい絶叫とともに、ベスの身体はきりきり舞いしながら、反対側の壁まで叩きつけられていた。分厚い壁板のへし折れる音をファーンがどうきいたか、獲物を見やる吸血鬼の薄笑いは痕跡もとどめていなかった。 「これは……┬さすが┴だな」と呻く。  リナが走り出したのを見て、唇が尖った。奇怪な音声。  先刻の戸口から、リナがゆっくりと戻ってきた。後ずさりしている。  数メートル離れて、グロテスクな影が次々と戸口をくぐり始めた。  大蜘蛛、巨大カタツムリ、粘液したたるイソギンチャク状の生物、うねくる紫色の触手の塊。……護衛獣の一団であった。  血の気を失って後退するリナの周囲で影たちは蠢いた。 「もう逃げられないわよ」  悠然と起き上がりながらベスが微笑んだ。 「さあ、いらっしゃい。あなたはとっくに——」  リナは耳を押さえた。自分でも理解し難い行為だった。なぜか、ベスの言葉をききたくはなかった。  異臭を放つ影どもの包囲がぐいと狭まった。 「さ、用意はできたぞ」  人面疽の声に、Dはうなずいた。  奇怪な材料群は、細い煙のすじを立てるひと握りの灰と、まばらな血泥を残して消滅している。そのすべてが、小指の先ほどしかない小さな口に飽食されたとは、誰が信じられるだろう。  音もなく、Dは馬上に舞った。  ほんの一瞬、痛ましげな瞳でサイボーグ馬を見やり、すぐひと鞭あてた。  しかし、永遠に閉ざされた空間内で、今度の疾走はどんな意味を持つというのだろう。 「結節点はどこだ?」  鋭く前方をねめつけながら訊く。耳元で風が鳴った。 「あと三〇〇。そろそろズレ始めるぞ、気をつけるがいい」  手綱を握る左こぶしの声が揶揄するように言った。  その意味は?——空間が知っていた。  見よ。疾駆するDの路傍の樹々が、草むらが、いや、大空と道までが、蜃気楼のごとくに歪み、水に溶ける絵の具のように、Dの背をめがけて押し寄せてくるではないか。  美しい若者の巻き起こす風が世界を溶解し、その背に引きつけるような、それは妖しい光景であった。 「あと一五〇」と声が楽しげに言った。「一二〇……一〇〇……そろそろじゃ」  Dの瞳は前方の光景だけを映していた。恐怖も怒りも哀しみもなく。いつもそうであったように。速度はさらに増し、風の唸りは怒号に変じた。 「五〇……三〇……一〇……今じゃ!」  声と同時に、溶け崩れた万物がDの背に触れ反転した。空間がめくれ返ったようであった。  次の瞬間——  廃墟の実験室で、小さな装置が火を噴いた。  自動修理回路が数千分の一秒で作動を開始したが、閉鎖空間を突破した超エネルギー体のもたらす破壊と反作用の速度は、それを遥かに上回っていた。  破壊と修正の葛藤。  判断力を失った修理回路は、プログラム是正に「廃墟」の持つ全エネルギーを注ぎ込んだ。  空間の破壊部位と他地点空間との四次元的接合。  Dの身体は宙を飛び、何もない空間へと舞い上がった。眼の隅で、サイボーグ馬が素粒子レベルに分解される様を捉える。  一九四五年。  バミューダ海域と接続した閉鎖空間内に、五機のアヴェンジャー雷撃機が飛行中だったことは不運というしかない。  一八七二年と一八八八年。  大西洋をイタリアのジェノアに向けて航行中の大型帆船「マリー・セレスト」の乗組員と、霧のロンドン貧民窟イースト・エンドを徘徊中の“切り裂きジャック”は、┬同時┴に閉鎖空間に呑み込まれ、歴史から消滅した。少なくとも後者については、修理回路の┬行動┴を讃えるべきであろう。  三〇四六年。  太陽系から二億七千万キロの近地点を秒速二千キロで移動中のα型ブラック・ホールは、冥王星を呑み込んだのち忽然と消失した。他天体脱出用の恒星間ロケットを建造中だった貴族科学院は、これがもとで非難の矢面に立たされ、大院長以下上層部の更迭が行われた。  接合が、実質時間|0《ゼロ》で行われた場合。  一九〇一年。  パリのヴェルサイユ宮殿を訪問中のアン・モバリイとエレノア・ジョルダイン両名は、庭内のあずま屋で写生中のマリー・アントワネットと巡り合い、一九一一年、「冒険」と題する匿名出版物の中で、このときの体験を克明に書き記した。言うまでもなく、フランス王妃マリー・アントワネットは、一七九三年、夫ルイ16世とともに革命断頭台の露と消えた人物である。  四〇一八年。  ┬人間┴の画家、ヴァーノン・ベリは、自宅で食事中に、一八七八年のロンドンで美女の寝室を襲うある┬貴族┴の姿を目撃。三カ月がかりで一枚の肖像画を描き上げた。以後六千年近い歳月にわたり、「神祖」像の最高傑作とされた絵画の、これが誕生であった。  最も効果的な短距離地点同士の接合。  猛烈な突風がリナたち三人を地面に薙ぎ倒し、必死で身を起こしたリナは、ファーン父娘との中間に、自分をかばうように立つ世にも美しい人影を見た。 「D!」  ひと目で事情を理解したのか、吸血鬼ハンターは音もなく前へ進んだ。顔すら上げることの難しい風威を、むしろ楽しんでいるような不敵なその姿。妖獣たちは呻き声を上げて後退した。 「やはり、お前か」ファーンと娘とを見つめて、Dは静かに言った。「滅び去る前に答えろ。お前たちの|主人《あるじ》——灰色の影はどこにいる? そこへ通じる道は?」  闇の美を結晶させたような体躯から生じる鬼気に気圧されながらも、ファーンは牙を剥いた。 「みな、廃墟におられる。しかし、もう辿り着ける道はねえぞ。それに、おめえはここで死ぬ」  奇怪な叱咤をきくより早く、Dは動いていた。自ら、押し寄せる凶獣どもの真っただ中へ。  白刃が唸った。複眼をつけた首が飛び、蛸のような触手が舞った。鮮血が噴き上げ、妖獣の発した炎が銀光の一閃で切断された。  凄絶無比な、そして静かな戦いだった。  風を切る太刀の音も、断たれる骨の悲鳴もない。妖獣たちの絶叫も吹き荒れる風がかき消してしまった。凶暴な爪も|嘴《くちばし》も牙も、ついに一矢とて報いることはなく、護衛獣はことごとくDの足元に伏していたのである。  光が飛んだ。  リナめがけて躍りかかろうとしたファーンは、白木の針に両膝を貫かれて転倒した。必死で腰の気圧銃に手をかけ、それは地面に縫いつけられた。ベスは地面から上半身を起こしたまま動かない。Dを見つめる視線は異様に熱かった。  ファーンの顔前に白刃が突きつけられた。 「廃墟への道はどこだ、答えろ」  威圧も強制もない静かな言葉が、恐れを知らぬ吸血鬼の血を凍らせた。眼の前の美青年がただのダンピールではないことを、ファーンは初めて悟った。 「貴様……貴様は何者だ?」  骨まで砕けた両膝と指三本をもがれた右手の痛みも気にならぬ圧倒的な恐怖の中で訊いた。 「貴族の一員に加わったものの力は、人間との混血児より勝るはずだ。それなのに、貴様は……」  しゅっと白刃が躍り、ファーンの片耳が飛んだ。 「おれは|吸血鬼《バンパイア》ハンターだ。——答えろ」  前と変わらぬ静かな、しかし圧倒的な迫力を秘めた口調だった。 「あたし……知ってる」  呻くようにベスが言った。父と若者の血戦場へ、ゆっくりと近づいてくる。 「しゃべるでねえ!——げっ!」  ファーンの声は、宙を飛んだもうひとつの耳とともに中断された。 「……教えてあげる……だから、あなたの血を吸わせて……美しい方」  ベスの声は欲情と歓喜にわなないていた。  差し伸べられた枯れ枝のような両手を左手で握り、Dはひと言「何処だ?」と訊いた。 「それは……」 「危ない、D!」  リナの声とともに、Dの身体が一気に三メートルも後方へ跳んだ。跳びながら、想像を絶するエネルギーの凝集体が美しい顔をはたいた。  ぽん! と空気の詰まった紙袋が破裂したような音が二度鳴った。  ベスとファーンの身体が内側から膨れ上がるや、血と肉の破片と化して飛び散ったのである。血飛沫と肉片が頭上に降りかかり、リナは悲鳴を上げた。  先刻からやんでいた風が、桁ちがいのスケールで納屋を翻弄した。重合鋼の構造材がたわみ、ネジが吹っ飛ぶ。  吸血鬼父娘の体内から、いや、ふたりの占める空間上に発生し、一地点に同時存在は許されぬ物理法則に従って彼らを葬り去ったエネルギー生命——それが、すでに三度も遭遇した存在であることを、Dは悟っていた。  ——やはり、敵だったか。だが、こいつは誰かの想念が生んだものだ。そして、┬そいつ┴にも、┬これ┴を制御しきれていない。  その┬誰か┴の心当たりはあった。  見えない存在が声を上げた。  リナが耳を押さえる。  赤とピンクの小片が、四方から「存在」へと降りかかっていったのはこの時である。  納屋中に四散したファーン父娘の血と肉片であった。いっとき、眼には見えぬ身体の表面で停止し、たちまち吸収されていく。  精神エネルギーの産物が欲するはずはない。産み出したものの食餌であろう。  戸口の向こうに気配があった。  Dが跳び、空中で見えない豪腕の一撃を受けて地に墜ちた。  頭が痺れ、軽く首をふる。左手を地につけ、身体を支えた。想像を絶するエネルギー密度であった。  無から有を造り出す超自然能力者は多い。妖術が産む気獣もその産物のひとつだ。しかし、自然法則に従う生物の産み出す「存在」の能力は、おのずと限界がある。純粋なエネルギーとしてのみならともかく、それに意思を伝え、操り、作業に従事させるとなれば、きわめて低レベルの力しか与えられないのが原則だ。  その意味で、Dの行動を妨げた存在は、この世ならぬ創造主が造り出したものであった。  Dなればこそ、それも、閉鎖空間突破の際のエネルギーが残存していたからこそ、その一撃に耐えられたのである。  エネルギー体がDの方へ向かって動いた。壁がきしみ、いやな音を立てて梁が折れた。 「——D!」  うつむいていたDの顔がふっと上がった。  真紅の光芒を放つ眼と二本の牙を、迫り来る死がとらえたかどうか。地につけた左手が柄を握った。  不思議なことに、リナはDのふる剣の軌跡と、ためらいもせず前進する巨大なものの「姿」をはっきりと見たような気がした。  二つの接点から、無色無音の火花が飛んでリナの脳髄を灼いた。  エネルギーは消滅した。  Dもがっくりと片膝をついている。  頭をこづきながら、リナは駆け寄った。 「D、大丈夫?」 「心配ない。それより、戸口を見てくれ。誰か倒れていないか」 「待っていて」  リナは戸口へ行き、ちょっと覗いて戻った。 「誰もいないわ。逃げたのかしら」  Dは少し考え、地面に身を横たえた。 「大丈夫? |医師《せんせい》呼んでこようか?」 「気にしないでいい。じきに治る。それより、どうしてここへ来た?」 「クオレを探しに来たの。待ってて、お水持ってくるわ」  Dが止めるより早く、少女は戸口から消えた。  しばらくして、ブリキのカップを手に戻ったとき、Dはすでに起き上がっていた。倒れたときも、どこが悪いのか苦痛の表情ひとつ示さぬため、リナは思わず、からかわれたんじゃないかと疑ったほどである。 「ごめんね。なかなか井戸が見つからなくって。はい」  差し出すカップをDは黙って受け取り、ひと口飲んだ。身体が欲したわけではない。リナの気持ちに報いたのである。この娘がそばにいると、Dを知るものにとっては考え及ばぬ行動をとる。それがわかったのか、リナもにっこりしたが、すぐに眉を曇らせ、 「ねえ、今のなあに? クオレを見つけた晩に出た奴かしら?」 「多分な。超高密度のエネルギー体だ。おれを封じ込め損ねたばかりか、ここへつないでしまったのを知って、ファーン父娘の口封じに来たのだろう」  リナに問われ、Dは手短に閉鎖空間のことを物語った。たかだか十七歳の少女が、それを理解しうる頭脳の持ち主と認めているのだった。 「へえ。凄い技術を持ってるのねえ」とリナが目を丸くしたところでふたりは外へ出た。  生き物の気配がすべて絶えた納屋に、二つのものが残っていた。  エネルギー体と刃を交わす寸前まで、Dが左手をついていた土の上の深い窪みと、戸口に近い護衛獣の檻の中に横たわるものであった。金属の仕切りで覆われていた上、ほぼ仮死状態に近い有り様だったため、さすがのDも気がつかなかったのである。  クオレ・ヨーシュテルンであった。 「また、しくじったか……」  低い声に、ようやく焦りの色がこもった。灯りひとつない廃墟の一室である。闇よりも濃い二つの人影が、暗黒の密度に打ちひしがれたように凝然と相対していた。 「この時間に戻らぬとなれば」  もうひとつの声が言った。片方は灰色の影として、残るのは誰だろう? 「しかし、あのハンター、実に手強い奴だ。まさか、閉鎖空間まで突破し得るとは」 「まさしく」 「まあ、倒す手はすでに考えてある。安心せい。それより、リナだ。まだ、┬思い出さん┴のか?」 「┬説得┴はしたが——。まだ、時期が来ていない。┬みな┴、眼醒めたのは別々だったではないか」  最初の声は沈黙した。それは、今の指摘がいかに容易ならぬことであるかを示すものであった。 「審査官が来るまでに二日。決着は今日、明日中につけねばならんな。やむを得ん。リナを待つより、連れて来よう」 「それは……」  二つめの声は明らかに動揺した。 「強制措置が必ずしもいい結果を生むとは限らない。特に、リナの心的処理は複雑微妙だ。下手をすると、取り返しのつかない事態が生じる。クオレを見るがいい」  今度は最初の声が呻く番であった。 「ふむ……そのかわり、奴は┬あれ┴を産み出す力を得たが。よかろう。もう一日だけ待つとするか。その間に、あの邪魔者を片づける。いいな」  声はなく、影のうなずく気配がした。 「しかし……」  少ししてこのつぶやきが洩れたのは、どちらの口からであろうか。 「感じないか……我々の他に誰かがここにいると……」 「馬鹿な」 「誰かが見ている。誰かが笑っている。我々の行動を……遥かな初源のときより」 「やめろ」  声は沈黙した。それから闇の中を遅滞なく移動する気配がした。闇だけが後に残った。彼らには闇だけがふさわしいとでもいうように。  分かれ道の上でリナは馬車を停めた。真っすぐ行けば村、左へ延びる線は廃墟の丘へと続く。 「もう邪魔も入るまい」Dが馬上で言った。馬はファーンの家から借用したものである。「おれは廃墟へ行く。君は——」 「家へ戻ってるわ。もう、懲りたもの」  リナは肩をすくめて舌を出した。 「それがいい。明日になればすべてが終わる」  Dの声に優しさが含まれているのを感じ、リナは眼を丸くした。何か言おうと思ったが、唇が動いたときにはすでに、美しい影は折り重なる木洩れ日の中を小さくなっていった。  長いことその場を動かず、やがて、リナは馬車を動かした。  真っすぐではなく、横へ。  少女とは思えぬあざやかな手並みで半回転した馬車は、|車輪《わだち》を軋ませながら、もと来た道を走り出した。  リナは鞭を振った。思いつめた表情を風が容赦なく叩いた。  二十分ほどでファーンの家へ戻った。  中庭まで乗り入れ、馬を停めると同時に、荷物入れの水筒を手に御者台から飛び降りた。先刻の恐怖も忘れたように納屋へ飛び込み、護衛獣の檻からクオレを引っぱり出す。  リナはDを偽ったのである。通路に倒れていたクオレを、水をくんでくると言って檻へ隠したのも彼女だ。何故そんなことをしたのか、自分でもよくわからない。クオレから訊き出せる何かをDには知られたくなかったのか——わからない。  ふけと|脂肪《あぶら》でもの凄い匂いのする頭を膝に乗せて水を飲ませると、クオレは咳き込みながら眼を開けた。  リナを認めて、濁った瞳に意識が宿る。  ほっとひと息ついて、無理やり|微笑《ほほえ》もうとする顔のあまりの憔悴ぶりにリナは胸をつかれた。  皮をはりつけた骸骨といってもいい。たくましい身体の中にあったものが、突然脱け出したような痩せ方は、瀕死とさえ映った。  抱き起こした身体も異様に軽く、運びながら、リナは涙が滲むのを抑え切れなかった。  どうして今ごろ——十年も経って、すべての歯車が逆転しだしたのだろう。クオレのやつれ果てた姿は、マイヤー教師を含む自分たち三人の運命を象徴しているのではないか。そんな想いの涙であった。  クオレをようやく御者台に押し上げたとき、門の方から蹄の音が近づいてきた。  リナは唇を噛んだ。よりによって、いちばん会いたくない連中に見つかってしまったのである。  自警団の男たちであった。 「おやおや、珍しいお客さまじゃねえか」  コーマという副団長格が馬上から身を乗り出して言った。クオレの様子に気づき、残忍そうな眼が光った。背中には黒光りする鉄棒をしょっている。小竜や熊を殴り殺しては、毛皮や肉を売りさばく猟師が本業だ。 「こりゃ、只事じゃなさそうだな。ファーンはどうした? いねえのか?」 「どうかしら」とリナは男たちの視線を精一杯にらみ返しながら言った。「探してごらんなさい。私はクオレと話をしにきただけよ。具合が悪そうだから、|医師《せんせい》のとこへ連れてく途中。用がなければどいてちょうだい」 「そいつは大変だな。さ、どうぞといきてえとこだが、そのやつれ方は只事じゃねえ。少し待ってもらおうか」  コーマの合図で二、三人が母屋と納屋へ入り、すぐ戻ってきた。納屋から出てきたひとりが、興奮したような顔つきで、護衛獣が皆殺しになっていると報告する。  コーマは凄みのある声で言った。 「やっぱり用ができたようだな。さ、一緒に来てもらおうか」  廃墟の内側も探し尽くして、Dは中庭に戻った。地下の実験室へ続く通路は数千トンの石塊に塞がれ、他の出入口は見当たらない。  それにしても、Dはなぜこれほどまでに廃墟に固執するのだろうか。吸血鬼ハンターとしての契約はすでに切れている。にもかかわらずこの村に留まるのは、依頼をまだ果たしていないというプロの意地か。それもある。だが、怒りも哀しみも歓びも、人間らしい感情のすべてを昇華させた氷のような美貌に、執念にも似た色を結ばせるのは、やはり実験室の奥で営まれた数百年にわたる作業の成果なのであった。  Dはそれを知っているのか? 「なかなか、見当たらんようじゃな」  左手が嘲笑した。 「じゃが、見つけたとして、どうする気じゃ? 十年前の実験の成果を確かめて、それがどうなる? また暗い夜が増えるだけじゃぞ。四人の子供たちの運命は、十年前に決まっておる。誰もそれに関与はできん。それとも……」 「それとも、どうした?」 「あの方に会うためか?」  Dの顔が一瞬こわばり、すぐ平静に戻った。 「かもしれんな」 「ほほう。人間が出来てきたか。長い旅も無駄ではなかったようじゃの」  このとき、天が暗く翳った。ぴたりと風の音も絶えた。  Dの右手が背中の剣に伸びる。  中庭は中庭でなくなった。  Dは全身で、┬それ┴が立ち上がりつつあるのを感じた。  周囲は暗黒であった。光すら透過を許さぬ密度は、ブラック・ホールに比すべきものがあった。┬それ┴は、その究極の密度を遥かに凌駕する緊密性をもってDの前に立ち塞がった。  Dはその密度を「気配」に還元した。  さすがだな。よく耐えた。  声の「気配」が淡々と言った。賞讃ではない。言葉における意味とは無縁のものであった。  他のものなら、精神を物理的に┬押しつぶされ┴、廃人となっているところだ。おまえは、やはり成功例だ。 「黙れ」とDは「言った」。意識もしない、口にも出さない。これもひとつの「会話」であった。 「ここで何をした? 十年前の実験の結果は?」  光と闇の遺伝子か。——見事なものだ。よく看破したな。  気配はDの周囲を巡りながら言った。  ひとりの遺伝子が、ひとつの遺伝子が、その種全体の発展メカニズムを決定してしまうとは残酷なことだ。まして、生物としての比類ない栄光を極めた種は、到底、いさぎよくその運命を受け入れられるものではない。その意味で「貴族」は立派だと言えるのではないか。 「ひたすら黙して滅びを受け入れたか」Dは嘲笑した。「ならば、吸血鬼ハンターなど必要はあるまい」  必要としているのは貴族ではない。人間だ。滅びゆく時くらい、望むだけ与えてはどうかな。 「屁理屈はきき飽きた。ここで何をしていたか、それを言え」  答えの代わりに、ある|光景《イメージ》が「浮かんだ」。  暗黒の中に光が生じたわけではない。Dの脳裡や精神に映じた像でもない。それでも一つのイメージには違いなかった。  それは、女の裸身だった。  一つではない。  無数の白い裸体が、単一の光景中に同時に存在していた。  その上に、黒い影がのしかかっていた。  影の形だけ、女の身体は黒々と消滅していた。乳房には指の形の穴が開き、ぬめぬめと悶える太腿は、太い足の影で切断されたように見えた。  女は絶頂を迎えていた。いつまでも続く絶頂のようであった。影の背に爪を立て、肩の肉を噛んだ。そらせた顔の恍惚が声となって濡れ光る唇から洩れた。  しかし、永劫の絶頂とは、永劫の苦悶の意ではあるまいか。  幾つかの顔は死を刻み込んで光景から消えていった。幾つも幾つも。Dは数千万を数えた。  覚えがないか。  と「気配」が尋ねた。  おまえなら記憶しているはずだ。この世に誕生した瞬間からな。  おまえは、┬ただひとつの成功例┴だった。 「貴様、やはりここでも同じことを繰り返していたのか」  Dが初めて言葉を発した。白い怒りに燃える言葉だった。  その通り。┬ここは┴、そのための計算局だったのだからな。三五〇〇年の間、おびただしい実験が行われ、すべて失敗に終わった。その結果もすべて抹消された。  光景が変わった。  Dの周囲を異形のものが取り囲んでいた。  明らかに人間と思しい、しかし、奇怪な生物たち。肥大した頭部、変形四肢、猫のように輝く双眸。全身を覆う剛毛。弱々しく泣き叫ぶ幼児たち。  Dはそのすべてが、姿形からは想像もできない能力の持ち主だと悟った。能力が┬見えた┴。彼らはひとり残らず、夜も昼も眠らずに行動することができた。真空中で呼吸することもできた。水の中を自由に泳ぎ回り、致命傷さえ細胞が修復した。  生物進化の一頂点であった。  しかし、それを支える唯一の欠点が、彼らの運命に死をもたらした。  吸血の習慣。  呪われた業。  それが抹消の理由だった。数十万の生命が抗議も許されぬまま、赤児の段階で闇へと葬り去られたのである。 「なぜ、そんな真似をする?」  あくまで淡々とした問いに無限の哀しみが込められていた。  可能性の追求だ。十年前にもあった。だが、それはすべて失敗に終わった。 「抹消する気か、あの幼い生命と同じように?」  失敗策を残してはおけん。 「気配」は断定した。静かな、それだけに恐ろしい意味を持つ断定であった。  闇の遺伝子はすべて処分する。望むなら、それを見届けるがいい。おまえは数多くのものを見てきた。もう幾つか増えても苦にはなるまい。 「気配」を┬ききながら┴、Dは眼を半眼にしていた。無限大に近しい闇の密度を有する存在を、自分と同等の形に変形していたのである。  それだけが勝ち得るチャンスだった。  無論、相手の存在そのものとは無関係だ。Dにとっての存在をDが斬る——それだけであった。  Dのどこかで、一つの、たくましい巨人の影が完成しつつあった。  黒いケープをまとい、青白い肌に刻み込まれた朱唇から二本の牙を剥き出した「神祖」の像。  それが完成した刹那、Dは渾身の力と精神力を鞘走る|剣《つるぎ》の一閃に託した。  光が闇を切った。  降りそそぐ午後間近の陽光の下、Dは大地に一刀を突き立て、それにすがるようにして立っていた。美貌に疲労の翳が濃い。 「奴は行ってしまったな」  息すら荒い。震えを帯びた声が答えた。 「……つくづく恐るべき奴だ。┬あの方┴に手傷を負わせるとは……自分の——」  答えず、Dは馬のつないである門の方へと歩き出した。 「どこへ行く?」 「四人の企みはわからんが、その運命だけは今わかった」 「ならば、村を出ろ。放っておけ。お主とは無縁の衆生だ」 「ひとりは明日、『都』行きが決まる。そのためにだけ、長い冬を耐えてきた。十年間続いた冬だ」 「最後まで真相を知らずに済むように見守ってやるというのか。よくよくおセンチな男だの」  Dは無言で馬に鞭を入れた。  鞭が白い背中で跳ねた。  食いしばった歯の間から嗚咽が洩れ、ふっと気が遠くなるのを、リナは必死でこらえ眼をあけた。  顔も、剥き出しにされた上半身も汗まみれなのに、身体はとても冷たい。  眼の前で嘲っている男たちと、血まみれになって石の床に倒れているクオレが映じた。  リナは手首を荒縄で縛られ、天井の滑車から吊るされていた。背中にはおびただしい青筋が走っている。これでも手加減していると、交互に鞭打ちながら男たちは笑った。  休憩を入れてももう二十分近く鞭打たれている。自白を引き出すためではなかった。リナの苦悶——鞭打たれて悶える少女の肉体を観賞するためだ。  男たちに質問などなかった。ファーン家の別棟にある自警団用の拷問所へふたりを連れ込むまで、ファーンとベスの居所や吸血鬼事件との関連を問い質しはしたが、リナが断固知らないと言い張ると、顔を見合わせて笑い、まず、半死半生のクオレを拷問にかけた。電気ショックをかけられ、水に漬けられ、それでも、少しでもリナをかばうつもりか、クオレは一時間以上も耐えてから失神した。 「こら、治安官を呼べ」  朦朧とかすむ意識の中で、自分が哀願していないことを知り、リナは微笑を浮かべた。なんだ、こんなもの。痛みを別にすれば、これまでの十年間にくらべて、ちっとも辛くなんかありゃしない。  男のひとりが近づいてきた。むさ苦しいひげ面からしてコーマに違いない。顎が強い力であお向けにされた。 「へっ、まだ元気じゃねえか。治安官なんざ呼ばねえでも、おれたちで十分さ。第一、おまえはまだ何にも吐いていねえんだ」 「何にも吐くことなんかないじゃないの。このサディストひげ。あっ、やだ!」  白い半球を垢じみた手で揉みながら、コーマはリナの顔にいやらしい唇を近づけた。 「吐くこたあ山ほどあるさ。ファーンの居所は? おめえと、近頃村を暴れまわってる貴族はどんな関係だ——え? 答えられねえなら、もっと身体にきくまでだな」  首筋を熱い舌が這った。  必死で顔をそらそうとしても、顎は押さえつけられていた。 「やだ、やだ、離せ、こらあ」 「おっと、暴れやがるな。おい。手を貸せや」  おう、とうなずき、三、四人の男たちが周囲に集まった。  締まった腰に、背中に、腹に、幾つもの手と舌が蠢いた。 「やだ、やだ」  身をよじりながら、リナの身体の奥で何かが変わろうとしていた。今まで他人に感じたことのない怒り。自らの身体に対する凌辱よりも、下劣極まりない人間の心性そのものに向けられた白い炎。  こいつら——┬この人間ども┴!  白い身体が跳ねた。凄まじい反動であった。死体に群がるハイエナのような男たちは、瞬間に床や壁に叩きつけられていた。  炎が手首の血管を走った。  わずかに力を込めただけで、荒縄はちぎれ飛び、リナは地に墜ちた。 「や、野郎!」  コーマが絶叫し、床から跳ね起きた。  立てかけてある鉄棒を掴む。中ほどから先端にかけて、鋭い円錐形の突起が露出している凶器だ。コーマが持てば石壁を砕き、近距離の獲物に投げつければ、大口径ライフルにも勝る威力を発揮する。  他の男たちも起き上がり、リナを取り囲んだ。 「もう容赦しねえ。下のも剥がして、やり殺してくれる」 「へっへっ。前と後ろから責めてやるぜ」  口々に下劣な台詞を撒きちらし、両脚に込めた力を床に叩きつけようとした寸前——。  鈍い音を立ててドアが開いた。  すべての眼がそちらを向き、五組はいぶかしげに、残る一つだけが驚愕と歓喜を込めて見開かれた。 「マイヤー|教師《せんせい》!」  床の服を拾うや、リナは夢中で若い教師の背後に隠れた。  男たちはさすがに動揺した。ばつが悪そうに横を向く。かろうじて、コーマだけが食ってかかった。 「何しに来たんだ。こんなとこへよ。あんた、行方知れずじゃなかったの!?」 「長旅に出ておりましてね」教師は、異様な状況に驚いた風もなく言った。「たった今村へ着いたところです。で、例の騒ぎがどうなっているのか、ファーンさんに伺うつもりで訪問したのですが」 「ファーンはいねえ」コーマは吐き出すように言って、リナを指差した。「あんたの代わりに行方不明になっちまったよ。行く先はその娘が知ってる。で、訊問中だったんだ」 「そうですか」と教師はうなずいた。真っすぐコーマを見つめ「しかし、その様子ではうまくいかなかったと見える。ここは私にお任せ下さい。自宅でゆっくり話し合ってみましょう。——よろしいですね」  なぜか、コーマは喉まで出かかった否の返事を呑み込んだ。 「それでは——これで」  軽く一礼し、マイヤー教師はリナを促してドアの外へ消えた。  腑抜けたような表情を見交わす男たちの間に、安堵と恐怖の気が立ち昇っていた。  馬車が門を出てしばらくすると、マイヤー教師はリナの手首を見てこう訊いた。 「青筋になっているね。ひどいことをする。しかし、どうやって縛めを外した?」 「あ、あの——暴れたら、ひとりでに」 「そうか」  それきり何も訊かず、教師は前方を見つめた。なんとなく不安になってリナは尋ねた。 「あの、どこへ行くんですか?」 「どこへ行きたい? 好きなところへ連れていってあげる。僕も今日は休みだ」  Dの顔とあの水車小屋が浮かび、リナは首をふった。懐かしい想い出だった。あれと同じ日がもう二度と来ないことを、少女は悟っていた。 「学校へ行きたい」 「よかろう。しかし、その前にクオレの手当てをしなければならないな。医者のところへ連れていこう」  なんだか寂しそうな声だな、とリナは想った。いない間に、きっと哀しいことがあったんだろう。  馬車は村へ向かった。  自警団の連中が中庭に集まったとき、Dを乗せた馬が駆け込んできた。  男たちの一メートルほど手前で、信じがたい急停止をやってのけ、驚く阿呆面へ—— 「娘がいたはずだ。どこにいる?」 「知るもんか」とコーマが前へ出ながら言った。敵意満々の声であった。ちょうど憂さ晴らしをしたいと思っていたところだ。いい鴨が飛び込んできやがったな。 「ちょっくら可愛がってやったら、ひいひい泣き叫んでたが、済むと羽根がはえて、窓から飛んでっちまったよ。学校じゃあねえのか」 「馬車の跡はここへ引き返している」Dは妙に静かな声で言った。荒くれ男たちの背を氷の指がなでて通った。「どうやって可愛がった?」  音もなく、美青年は男たちの前に立っていた。正視もできぬ白い気が愚かな顔を打った。それは鬼気であった。 「あの娘に何をした? 答えろ」  沈黙を許さぬ問いに、コーマは虚勢を張った。 「へ。おれたちが来たとき居合わせたんでよ。ちょっくら、貴族さんとの関係を訊き質したら抵抗しやがった。それで、奥へ行って可愛がってやったのさ。両脚広げてぶち込んだら、ヒイヒイ泣いて歓びやがったぜ。それから、鞭でぶったたき、みんなで傷口を洗ってやったよ。この舌でなあ」 「そうか」  静か、というより低い声でDはうなずき、無言で背を向けた。 「化け物!」  大気をえぐって鋼鉄のハンマーが弧を描いた。Dの頭上へ! 「おおっ!?」  男たちの絶叫は、鉄と鋼の打ち合う響きともきこえた。Dの首筋——そのやや上で、鋼鉄の棒は、鞘から抜け出た白刃に食い止められていたのである。  脳天を襲った棒を軽くずらしたタイミングよりも何よりも、男たちは、たった一枚の薄刃が数百キロの鉄塊の衝撃を支えた事実に眼を剥いた。  だが、心底震え上がるのは、それからであった。  Dがじりじりと、しかし停滞もなく剣を抜いていったのである。  無論、片手だ。そして背後では、体重百キロは下らぬ大男が五十キロもの鉄棒を両手で握りしめ、渾身の力で白刃の動きを食い止めようとしている。  馴れ合いでないとするならば、これは世にも恐ろしい光景であった。  完全に|刃《やいば》を抜き終え、ゆっくりとDが向きを変えると、コーマは片手を反対側の端にずらし、両腕で頭上の棒を支える形となった。このとき、刃も棒も微動だにしなかったのが不思議である。いつの間にか、刃は棒の中央に移動していた。  Dが無表情に、その美しくたくましい手の筋肉ひと筋動かしたとも見えないのに、コーマの巨体が沈み出したのを認めて、男たちは棒立ちになった。  噴き出す汗がひげを濡らし、瘤のような筋肉が震えたが、沈降は止まらなかった。巨体は一本の腕と白刃に押されてひざまずいた。  あとは両腕に頼るしかない。恐怖の眼で頭上の敵を見やったとき、底知れぬ圧力がふっと消えた。よっしゃ、これからだぞ、この吸血鬼野郎。  だが、コーマが本当の恐怖に我を忘れたのは、まさしく次の瞬間であった。  刃だけが下がってくる!  鋼が鉄を押し切っているのだと知り、わずかな理性が絶望の狂気に蝕まれようとした寸前、 「娘はどこにいる?」  美しい死神が訊いた。この場合でも、自分を見据える美貌とその声に、コーマは陶然となった。 「マイヤーが来て……馬車で連れてった。クオレも一緒に……」  Dはうなずき、鉄棒とコーマの脳天から股関節までを一気に両断した。  あお向けに倒れてから初めて血煙とともに裂けた身体には一瞥も与えず、Dは馬に跨った。  白昼夢でも見たように立ちすくんでいた男たちが、ようやく息をついたのは、野を打つ鉄蹄の轟きが遠く去ってからであった。  この森を抜ければ村の入口だという地点で、馬車は急停止した。 「せ、|教師《せんせい》——何?」  荷台でクオレの看病に精を出していたリナが、びっくりして身を乗り出し、あっと叫んだ。  五メートルほど前方の道に立っているのは、あの忌わしい灰色の影であった。 「|教師《せんせい》、逃げなくちゃ!」 「駄目だ。馬が動かん」 「大丈夫。荷物入れに杭撃ち銃があります!」  言うなり、リナは荷台へ戻り、荷物箱から取り出した細長い武器を構えた。直径五センチほどの銃身の周りを囲む杭の尻に発火薬をつけ、小型のモーターで連射する火器は、遠距離でこそその効果は薄れるが、近距離に限れば絶大な威力を発揮する。 「お下がり!——この前の短針銃みたいにはいかないわよ!」  仁王立ちでリナは叱咤した。  影は音もなく近づいてくる。 「来ないで! ┬撃ちたくないのよ┴」 「撃つんだ、リナ!」  マイヤー教師の声が、ぎりぎりまでしぼった指の力をわずかに狂わせた。  ショックと炸裂音を残して放たれた杭は、ものの見事に影の心臓を貫いた。  わずかに身体を揺らし、影は右手を背中に回した。杭の根元が影の胸に吸い込まれてゆくのを見て、リナは戦慄した。抜き取った杭を右手に影は跳躍した。  荷台のリナ目がけて杭を振り下ろす。  空を切った。  リナは自分が道に立っているのに気がついた。  どうして、と思う間もなく、影が杭を投げつけた。悲鳴を上げるより早く、風を切る唸りはリナの胸の前で消えた。  杭の真ん中を掴み止めた自分の右手を、リナは茫然と見つめた。  何やら別の生き物に変わったようであった。 「まだ、わからんか?」と影が荷台で訊いた。「その動き、そのスピード——お前はもう、昔のリナではない」 「阿呆、寝言は寝てから言え!」  リナの投げ返した杭を難なく受け止め、影は右手を上げた。 「D!」  傍らにひっそりと立つ美青年を認めてリナは愕然となった。 「どうした——その男、欲しくはないか?」  影の声を遠くにききながら、リナはこのとき、身の危険よりも安堵よりも、激烈な欲望に身を灼かれたのである。  Dが欲しい。この美しい腕に抱かれたい、と。 「それは、お前の心の投影像だ、おまえの願いは決して拒まん。好きなやり方で愛してやるがいい」  低い声は期待に満ちていた。心理攻撃と知りつつ、リナの手がDのたくましい厚い胸に触れた。愛らしい唇が喘いだ。  Dの吐息が甘く香った。  ……が吸いたい……  リナの心がつぶやいた。  ……が吸いたい…… 「駄目よ!」  必死で身を離した途端、Dはマイヤー教師に変わった。  両手に持ったガラス容器から、不思議な香りが鼻をついた。  その色と匂いに顔をそむけながら、リナはこう叫ぶ別の声をきいた。  ——飲みなさい。飲むのだ。これで┬あなた┴は自由になれる。┬私┴に戻るのよ。  容器が突き出された。  それが口元で傾き、真紅の液体がぐうっと迫ってきたとき、リナは必死で両手を叩きつけた。  ガラスが砕け、眼前が真っ赤に染まった。  そばには誰もいなかった。手も無事だ。  リナは走り出した。  後ろも見ずに足を動かした。止まったら影が追ってくる。何よりも自分が変わってしまう。それが恐怖だった。  気がつくと、森の出口にいた。  見覚えのある校舎が映った。行ってはいけないような気がしたが、他に行くべきところもなかった。 「リナ」  歩き出そうとした少女を、灰色の影が呼び止めた。  引きつるような悲鳴をあげてふり向く。  安堵の色が浮かんだのは、見馴れた顔を認めてからだ。たとえ、好ましからざる相手でも、今のリナにはクラスメートというだけで嬉しかった。 「どうしたの、こんなところで?」  登校の途中らしいカリスが、いぶかしげに訊いた。のっぺりした美男面が媚びるような笑いを浮かべている。 「何でもないのよ。早く行って」 「ご挨拶だなあ。ようやく会えたのに」 「ようやく?」 「このあいだ別れてから、君のことばっかり考えてたんだぜ。ほら、昨日摘んどいたんだ」  眼の前に白い花束が突き出された。  夏の日も冬の日も届けられたつつましやかな花と、一日で根こそぎ刈り集めた花束。  リナは朝の窓辺を想った。今日は来ないのではないかと小さな胸を震わせて開けた窓。誰かが見守っていてくれるのだと、そっと抱き締めた白い花。——すべてが限りなく遠かった。  花束を受け取り、 「ねえ、カリス。お願いがあるの」  自分のものではない声が言うのをきいた。 「なんだい?」 「あなたの家、確か獣の解体屋さんだったわね。倉庫はこの近くじゃなかったっけ?」 「そうだよ」いぶかしげに眉を寄せながら、細い眼に好色な笑みが浮かぶのをリナは見逃さなかった。どうでもいいことだ。 「そこへ連れていって。しばらくかくまって欲しいのよ。だって、お父さん、いやらしいことばかりするんですもの」 「へえーそうかい」一昨日別れたときとは別人のような色香を放散する少女の肢体に、秀才の喉がごくりと鳴った。「いいよ。どうせ冬場は使ってない。今すぐ行くかい——それとも放課後?」  リナは校舎を振り返った。何人かの生徒がこちらを見ながら校門へ消えていく。ビスカやマルコもいたような気がした。誰かが手をふり、小さく応じて、リナの手はそっと下りた。別れを告げたとでもいうふうに。  そして、カリスの手を握った。  赤みを増したような唇と濡れた眼が艶然と微笑み—— 「さ、一緒に行きましょう」  魅入られたような少年と少女が森の奥に消える頃、Dは校舎に到着した。ファーン家から続いていた馬車の轍が、奇怪なことに森の道で突然途切れ、何やら相争った痕跡を地面に見つけて急行したのである。  校庭で馬を停め、ただひとつの校舎に入る。高等部の部屋は、いちばん校門寄りにあった。  建てつけの悪いドアをノックもなしで開けた途端、おびただしい視線が集中した。 「これは、ようこそ。お久しぶりですな」  チョーク片手にマイヤー教師が会釈を送った。 「お客さまに起立」誰かの号令に合わせ、二十人近い子供たちが一斉に立ち上がる。「礼」一分の狂いもなく同時に頭が下がり、また上がった。全員がリナの顔を持っていた。 「着席」の声はない。  Dの瞳が凄絶な光を発した。  ——心理攻撃か。はまったな。  自身への叱責ですら淡々と、Dは周囲を覆う|力場《フォース・フィールド》の発現点に意識を集中した。わからない。雨の夜の攻撃失敗に懲りたか、敵は幾層にも及ぶ撹乱場でその位置を遮蔽していた。思念集中で見極められぬこともないが、膨大な時間と精神力の消耗を要する。 「授業参観をなさいます?」  チョークを持った┬リナ┴が訊いた。  Dの口元を苦笑がかすめた。  いかなる想いも凍てつくはずの、氷のような精神のどこに、あどけない少女の面影があったのか。  無数のリナが近づいてきた。右手に白木の杭を握っている。Dを取り囲み、一斉に振り下ろした。跳躍しようとしたDの足は床にはりつき、数本の杭が血飛沫をあげて胸を背を貫いた。  激烈な痛みに、しかし表情ひとつ変えず、Dは教室の片隅に跳んだ。今の一撃に耐えたことで、敵の呪縛は大幅にその効力を失ったのである。  現実にDの身体を杭が貫いたわけではない。すべてはDの精神内部における死闘であった。そこでの肉体=精神パワーが屈服すれば、現実のDは傷痕ひとつ残さず死亡する。逆に持ちこたえれば、その結果は鋭利な刃と変じて攻撃者を襲う。  静かな闘いであった。  リナとリナとリナが杭を投げた。二本は跳ね返し、もう一本が肩に刺さった。  リナとリナが格別長い杭を腰だめに殺到してきた。Dは長剣を抜いてリナとリナの首を薙いだ。  手応えはなく、二本の杭が下腹部にめり込んだ。杭から手を放し、リナとリナが愛らしく笑った。  Dは刀身を見つめた。ただの木の枝であった。表層意識は殺戮を命じても、潜在意識は「リナ」を救おうとしているのだ。  灼熱感と大量出血による急速な脱力感の中で、Dは苦く笑った。  リナが跳躍し、頭上から杭を打ち下ろした。左手でその手首を掴み、包囲網の真ん中へ投げ戻す。苦痛は増したが、身体の動きは回復しつつあった。敵も弱っている。  突然、世界に変化が生じた。  びょうびょうと風ばかりが渡る氷原の一角にDは立っていた。  傷一つない。右手の剣は無双の武器に戻っていた。  Dはかえって|精神《こころ》の檻を堅く閉じた。  敵はこのイメージに勝負を賭けたのだ。死力を尽くして、風と氷の原に美しい屍をさらそうとしている。  漆黒の空を流れ星が飛んだ。  D  誰かが呼んだ。声は風に巻かれ、凄愴な叫びとなって、白い氷原をどこまでも走った。  D  一メートルとも千キロとも見定め難い前方に、ひとりの女が立っていた。  純白の長衣はドレスではなく屍衣であった。長い黒髪に隠れて顔は見えなかった。Dとよく似た、透き通るような肌を持っていた。  D  それは女が発した声のようでもあり、風の唄のようでもあった。  Dは凝固したように立ち尽くしていた。  敵はDのどこからこんなイメージを導き出したのだろうか。まこと、茫々と広がる虚無の平原こそ、この若者にはふさわしい世界だった。  しかし——女は。  D やっと会えましたね  氷原を渡る風のような声であった。  待っておりました——一つだけ訊きたくて  Dの全身が緊張した。  発せられる問いが何であろうとも、その要求を叶えることは、精神の死を意味しているのだった。敵の罠は完璧であった。  あなたのお父上の名を知りたい  問いは発せられた。誰よりもその女が解答を熟知しているはずの問いが。  Dの麗貌に、初めて暗い翳が宿った。風はさらに勢いを増し、氷原はいよいよ冷たく冴えてDの翳をなお暗く染めた。  答えて下さい、D お父上の名は——?  名は——?  その名は——?  Dの唇がかすかに開いた。小さな頬の震えが、いま彼の戦っている精神戦の凄まじさを物語っていた。  名は——?  父の名は——?  限りなく重い言葉の端を風がちぎった。 「……その名は……ド……ラ……」  白い光が氷原を埋めた。  Dは教室のドアを開けたところだった。  チョークを握った中年の教師が、あっけにとられたような顔を向け、生徒たちは息を呑んだ。  心理攻撃は失敗に終わったのである。 「何か、用かね?」  教師が尋ねた。マイヤー教師の代役であろう。 「リナを見かけなかったか?」  教師から生徒たちへと眼を移しながらDは尋ねた。氷原も女もあの問いもすでに心から遠く去っていた。彼はハンターだったのだ。  返事はなかった。娘たちはうつむくこともできずDの顔に視線を送り、男生徒の頬すら羞恥に染まっている。美貌もここまでくると考えものであった。 「あの|娘《こ》は危険な目に遇っている。生命ではなく魂の危機だ。知っていたら教えてくれ」  細っこい影が窓ぎわから立ち上がった。  しかし、Dがカリスの解体小屋に駆けつけたとき、喉元を食い破られ、そのくせ血一滴残っていない少年の|骸《むくろ》だけを床にさらして、リナの姿は忽然と消え失せていた。  丘陵を登る十騎以上の騎馬は、後方から追いすがる蹄の音に振り返った。村長と治安官を含む自警団の面々であった。 「何処へ行く?」  五メートルほどの間を置いてDは訊いた。  治安官が進み出た。馬の背にくくりつけた銀色の円筒を指差す。陽子爆弾であった。 「あの廃墟を処分する。審査官の眼に触れて気分を害さぬようにな。もう誰でも普通に登れると、花を摘みにきた子供たちが知らせてくれたのだ」 「ちょうどいいところに来たな」と村長が顔中を口にしてわめいた。「これが済んだら、おまえの逮捕に向かう予定だったのじゃ。コーマ殺害の容疑でな。その後でじっくりとリナの居場所を訊いてやる」  Dの視線を向けられ、コーマ両断の現場に居合わせた何人かが蒼白になった。 「残念ながら、その容疑は成り立たん」と治安官は村長に向かって言った。「彼らの証言によれば、後ろから攻撃を仕掛けたのはコーマだ。となれば、どんな死に方をしようが、非は奴自身にあったことになる。我々がこのハンターに尋ねることは、リナの行方しかない」  理路整然たる陳述に、村長は唇を噛んだ。治安官は晴れ晴れとした顔でDを見つめ、 「眼の前で仲間を殺されながら、┬本当のこと┴を話すとは、よくよく君に恐れ入ったと見える。正直、舌を巻く思いだ。どんな技を使ったのか、いつかご教示願いたいものだな」  おかしな雰囲気を察し、村長がまたわめいた。 「なな何を呑気なことを言っておるか。少なくとも、こいつはリナの居場所を知っておるのじゃ。逃げ出さんようにこの場で逮捕せい」 「逃げるなら、馘にされたときに村を出ているだろう」治安官は強い口調で言った。「しかし彼は留まった。|理由《わけ》は知らんがな。そして、無理やり飛び込んだリナを守るのに生命を賭けた。——村長、あの護衛獣を前にして、見ず知らずの娘のために戦う気が我々にあるかな? 確実な死が眼前に迫ろうと、この男は逃げも隠れもしまい。逮捕する必要はない」  満面を朱に染め、村長は沈黙した。 「過分なお言葉だが、廃墟には手を出さん方がいい」Dは静かに言った。「丘の道が正常に戻った以上、別の防御策があると見た方が妥当だろう。あれは貴族の城だ」 「抜かりはないさ」  治安官が右手をかざし、丘の陰に眼を移した。  低い地鳴りをDはすでにきき取っていた。  天を突く黒い砲身が見えた。  メタリックな巨体が陽差しを跳ね返しながら、圧倒的な質量を誇示して一同の眼前に出現した。光学兵器防御の特殊コーティングを施した扁平な車体。三次元立体センサーとキャタピラだけが太古の名残をとどめている。 「M八〇二六CT——コンピューター|戦車《タンク》だ」治安官は力強い声で言った。「村はずれの土手に埋もれていたのを数年前に発掘したのだよ。わざわざ『都』から技術者を呼び、チューンナップしてもらった。おかげで以後三年間、野盗や大巨獣の被害はゼロだが、村は万年金欠病だ。二千年前の型だが、マニュアルも残っていたし、十分使用に耐える。何らかの理由で放棄されたらしい。バック・アップは完璧というわけだ」  Dは無言で丘の麓へ馬首を巡らせた。廃墟の奥に灰色の影が潜んでいることも、リナが立ち去った可能性があることも言わず、無言で丘を下っていく。 「この仕事が片づいたら水車小屋へお邪魔する」と治安官が声をかけた。彼も村人も、貴族は死んだと思い続けているのだった。「できれば、それまでにリナの行方を探しておいてもらいたい」  隠さずに引き渡せば穏便に済ませるという意味であろう。  Dはもうふり向かなかった。 「ええい、行け」と村長が命じた。「景気づけに一発ぶち込むのじゃ、治安官」  治安官は苦笑し、それでも口頭で砲撃を指示した。  一五〇ミリ大出力レーザー砲身が持ち上がり、無駄な修正なしで廃墟の影をポイントする。歯車の軋む音もしない。  太い光の錐が城壁に白熱の球体を産んだ。一千万度の熱球は、石壁を瞬時に蒸発させながら、陽光を浴びて虹のようにきらめいた。  男たちが歓声を上げた。 「出動じゃ!」と村長が叫んだ。  丘が応じた。  唐突に戦車が回転したのである。唸り飛ぶセラミック砲身の一撃を受けて、数人の男と馬の首が熟柿のごとく粉砕された。 「退れ! 麓まで退却だ!」  治安官の声は驚きにかき消された。  猛烈な旋回を続けながら、戦車の巨体が土中に吸い込まれていったのである。それは、土と緑の渦に巻き込まれていく巨船の断末魔のごとき、想像を絶する夢魔の光景であった。  メリメリと金属の軋む音が土中より木魂し、砲身のみが空を仰いだとき、凄まじい震動が丘を揺るがした。  超小型核炉のエネルギーは紅蓮の炎となって空中へ噴き出し、世界を真紅に染めた。 「……丘に食われたか」  こけつまろびつしながら丘を駆け降りる人馬の一団を見送りながら、Dは低くつぶやいた。これで、廃墟へ近づく道も絶たれたわけである。  Dは水車小屋へ戻った。  せせらぎで馬に水を与え、小屋内の荷物から銀製のカップと、小さなカプセル入りの瓶を取り出した。清水を汲み、カプセルを一個落とす。  みるみる水は血色に変わった。一気に飲み干し、軽く息をついた。  乾燥血漿と滋養分を含んだカプセルが、ダンピールの食事であった。  普通のダンピールなら一個ずつ一日三回。しかし、Dは村に来て初めてだ。単なるダンピールの範疇を遥かに超えた体力であった。  空は蒼みを帯び始めていた。  闇の彼方に、ひとりの少女の「明日」は来るのだろうか。  Dはカップを窓辺に置いて馬に近づいた。無駄でもあきらめるわけにはいかなかった。  何のために死と徒労を重ねるのか。  馬に跨り、ふたたび廃墟への道を辿りだす。  数分、疾駆して止まった。  道の脇にひとりの若者が立っていた。クオレである。  すっと消えた。  馬から降りて近づいたDは、繁みに隠された小さな穴を見た。リナが灰色の影と遭遇した土中の穴であった。  罠だろうか。  ためらいもせず、Dは身を躍らせた。  奇妙な感覚が全身を刺激した。  意味するところは一つ——空間の歪みだった。距離という名の間を置く二点間が結びつけられているのだ。恐らくは、この穴と——廃墟と。  足元は土。三十センチと離れていない場所に石畳の床が広がっていた。脱出孔の一つであろう。Dによる閉鎖空間破損時に吹き飛んだ回路が直ったか、ここだけは維持し抜いたか、だ。  Dは足元の小石を拾い、前方へ放った。地面と石畳の境界線上で、それは青白い光を放ち向こう側に落ちた。形だけはそのままの、別の物質であった。 「┬死んだ┴か。同調処理を受けねばならんな」  ここにも手強い|防人《さきもり》がいた。  空間断層の物理的特性に適合しない存在は、通過した瞬間、音もなく物質的な死を迎えるのであった。  Dは金剛石に変わるのだろうか。  思考する時間もとらず、Dは無言で進んだ。  全細胞が宝玉の光を発し、夢のような炎が|貌《かお》を彩った。  石畳を踏むと同時に、それは揺らいで消えた。  軽く首をふっただけで、Dは闇の奥へと挑んだ。  異臭と気配が周囲に凝集した。  Dの眼は、広大な空間の広がりと、その住人たちの姿をはっきりと見ることができた。  歪み、変形した┬もと┴人間たち。  びゅっ! と風が唸り、跳びかかった┬ふたり┴が首を断たれて地に墜ちた。血走った眼から、|凶々《まがまが》しい憎悪の念がDを呪縛せんとほとばしり、闇を沸騰させた。  殺戮と憎悪にのみ歓喜する生物。彼らはその代償に何を得たのだろう。  さらに数人が生命を落とし、異形のものたちは闇の奥へと後退した。  奥の壁にはめこまれた鉄扉が、足音を吸い込んで閉じつつあった。  Dは黒い風と化して細い隙間を通り抜けた。  光りかがやく廊下に出た。シリコン・スチールの壁と天井に発光材が混入されているのだろう。数千年の歳月にも朽ちなかった床が、Dの姿をおぼろに映した。  異形人たちの気配を追って、Dは長い廊下を進んだ。閉ざされたオート・ドアの向こうで、なおも機能しているらしいメカニズムの唸り声がきこえた。  夢の跡であった。誰が何を夢みたのか。  風景が変わり、巨石の入り組んだ一角がDの前方に立ち塞がった。朽ちかけた石段が頭上の闇へ延びている。  昇り切るとすぐ、スチールのドアが現れた。  Dの胸元で青いペンダントが輝きを増し、ドアは音もなく開いた。  広大な空間を、たそがれのような光が埋めていた。  リナと侵入した部屋を思わせる実験室である。数倍の広さがあろう。  これまで眼にしてきた幾つもの城の光景がDの脳裡を去来した。やはり青い光が満ちていた。滅びの色でもあろうか。  石の床の上で、裸身が絡み合っていた。  白い女体にかぶさる灰色の影が動くたびに、低い喘ぎが洩れた。  白い腕が灰色の布に爪を立て、太腿が腰を締めつけた。  太古のミイラに犯されるような美女の顔はリナのものであった。  歓喜に固く閉じられた瞼が不意に開き、Dのそれと合った。表情が消えた。  空気も揺らさず灰色の影は跳ね起きた。  刀身が青い光を吸い取る。  同時にDの背も鞘鳴りの音を立てた。 「そうか……クオレだな」  影が怒りを声に変えてしぼり出した。 「精神エネルギーを使い果たして半死半生だからと、放っておいたのがまずかった。だが、遅かったぞ、ハンター。おれの望みは果たした。おまえにリナが斬れるか?」  殺気に満ちた灰色の影と、けだるげに汗ばむ上半身を起こしたリナとをともに視界に収め、すでにDは事態を呑み込んでいた。 「……┬新しい貴族┴の誕生か。——おれに斬れるとしたらどうする?」  影がゆっくりと刀身を床すれすれまで下げた。 「斬れるか——┬仲間を┴?」  白光が交差した。  信じられぬ速度で間合いを詰め、下方から逆流れに浮き上がった魔剣をDの長剣がはじき、思わずバランスを崩した影の肩先を割った。  赤黒い傷がぱくりと口をあけ、鮮血が飛んで——すぐ閉じた。  Dの瞳に感嘆の色が走る。  いかに強力な再生力を誇る貴族といえど、Dの一撃を受けて無事に済んだものはいないのだ。  影が後退しながら、かたわらの実験台に触れた。樫の木でできた、長さ三メートルはありそうなテーブルであった。  軽く左手を動かして、影はそれをDめがけて投げつけた。  唸る勢いであった。  Dの身体に激突したと見る間に、それは突如方向を変え、彼の頭上を越えて背後の床に落ちた。  Dが長剣の先で跳ね上げたのだと知り、影は立ちすくんだ。  人間の形をした人間ならざるものの対決。  Dは一気に空中へ跳んだ。  まだ動くのを忘れたか、影の心臓は白刃に背まで刺し通されていた。  リナが驚きの声を上げた。  二つの影が一つに重なった瞬間、片方が背後へ跳びのいたのである。身体に剣を縫い止めたまま。  マスクの奥で、血走った眼が嘲笑を浮かべていた。  Dの剣に心臓を貫かれても不死身の吸血鬼!  いや、陽光の下を闊歩するものが、夜の宿命を甘受せねばならないという保証があろうか。  素手となったDの眼前で銀光が閃き、Dは影のように宙に舞った。追いすがりながら灰色の影が左手を振った。  鉛色の円筒が床を叩き、Dの前後左右で火柱を噴き上げた。  超小型の原子手榴弾が生む十万度近い炎をコートの裾で跳ねのけながら、Dの足が止まった。背後は石の壁であった。  マスクを通して影の笑いが見えた。  その笑いが凍りついたのは、寸前で胸をかばったDの腕が、その掌が、必殺の突きを防いだためであった。  愕然と立ちすくむ影の眼の前で、掌に浮かんだ顔がヘラヘラと笑った。切っ先は、その小さな邪悪な口にくわえられていた。まさしく、刃は食い止められたのである。  驚きのあまりか、奇怪な口の力に及ばなかったのか、長剣を放して跳びのき、胸に刺さったままの剣を抜こうとした影の首あたりで、カッと頚骨を断つ音がした。  今度こそ噴水のように血を噴き上げ、首のない胴が倒れ伏すのも見ずに、Dは床を転がる灰色の首に近づいた。  宙を飛んだ衝撃でマスクが剥がれ、まだ若い男の顔が空をにらんでいる。右半分が圧搾器にでもかけられたように押し縮められ、眼も耳も二分の一ほどに縮小してしわだらけの顔に埋め込まれている。顔を隠していた理由であろう。 「どんな貴族にもない力を授かった代償よ」  Dの脇でリナの声がした。どこから持ち出したのか、白い屍衣をまとっている。昨日までは何よりふさわしくなかった服。 「クオレは精神エネルギーの増幅制御能力を得た代わりに、知能低下を引き起こした。もう、すべてわかったわ。彼がタジール・シュミカよ」 「マイヤー|教師《せんせい》は無事か?」  周囲に気を配りながらDは刀を収めずに訊いた。もうひとり、コンピューターに浮き出た見知らぬ吸血鬼に備えているのであろう。  リナはふと笑った。 「じき会えるわ。真相を知りたい? あなたにはほとんどわかっているでしょうけど」  Dはリナを見つめた。全身に精気をみなぎらせ、無意識にさえ彼を眩惑するつもりか、屍衣の合わせ目から生々しい太腿をのぞかせている十七歳の少女を。 「すべては十年前の実験の成果か。それが今、明らかになったわけだ」  淡々とした口調にリナはうなずいた。部屋の片隅で眼を光らせている生物たちを哀しげに見やり、 「彼らも、同じ時期に別の村から連れ去られた子供たちよ。あの姿と、飲まず食わずで十年以上、いえ、永遠に生きられる身体。得をしたと言っていいのかしらね。どう思う? 彼らにくらべて私たちは幸福だったかしら。実験段階では外面的な異常は認められず、少なくとも十年間は人間として暮らせたのですものね。十年前、すでに死んでいるとも知らず——」  紫煙をあげて溶け去る首と身体をちらりと一瞥しただけで、Dは実験室を取り巻く膨大な電子装置群へ目を転じた。  遺伝子変換装置、自動手術ユニット——かつて行われた忌わしい実験の名残を闇に留めて、超LSIの結合体たちは声もなく悲劇の真相に耳を傾けていた。 「タジールは何故残された?」 「彼は失敗例だったの。実験完了時から凶暴で、無闇と血を吸いたがったわ。それで、私たち三人だけが解放されたのよ。十年の猶予期間をおいて。私たち、最高の|実験成果《モルモット》だったらしいわ」  十年間——実験の成果が判明するまでの長い長い期間。その間、彼女たちの身体に加えられた試みは、その細胞のひとつひとつを変え、血管を流れる血には別の色が混じり、遺伝子は闇を求めて…… 「私の知能増大も含めて実験はほぼ成功したと言えるのではないかしら。今の私は闇の中でもものが見えるし、何も食べなくても体細胞がエネルギーを生産してくれる。試したことはないけれど、真空中でも水の中でも生きられるでしょう。D、あなたにできて?」  答えを待たず、リナはタジールの残骸の上からDの捨てた剣をとるや、自分の心臓へ深々と突き刺し、また抜いてみせた。 「首を斬り落とされない限り、私たちは不死身よ。タジールはそれを知っていたから、私を仲間に引き入れ、望みを果たしたの。——見てたでしょ。いい子ができるかしら?」 「なぜ、今まで君に手を出さなかった? チャンスはいくらでもあったはずだぞ」 「闇の遺伝子が完成するまでは、彼ひとりが眼醒めていてもどうにもならないからよ。それまで待てば、私は自動的にすべての真相を知り、進んで彼に抱かれていたでしょう。私たちの子孫を増やすために」  それが廃墟の意図したものだったのか。 「けれど、実験は結局失敗したようね。タジールと同じ貴族の|性《さが》が私にも宿ったわ」  かすかに開いた口の中に、Dは二本の牙を見た。  残雪の道で、『都』へ行くとはしゃいでいた少女。  朝の窓辺で、白い花を胸に、贈り主の走り去った道をいつまでも見つめていた少女。 「あなたが見つけたかどうかは知らないけれど、私はここへ来る前、クラスメートのひとりを殺したわ。ふたりきりになったとき、いきなり抱きつき、押し倒して、『都』へ行く権利を譲れと迫ったのよ。私みたいな、貴族にやられた女に気があるふりをしたのは、そのためだって。このとき、私の中で何かが決定的に変わったわ。これで殺人の動機が正当化されるかしら」  Dは黙って耳を傾けていた。他にするべきこともなかった。彼はこの村で、何のために戦ったのか。 「君も同じか?」  背後に尋ねる声は、しかし、いつものように冷たく澄んでいた。 「はい」  青い光の中にクオレがたたずんでいた。別人のような理知的な表情で——そして、白い牙。 「彼は最後まで私をかばってくれたわ。自分の運命に気づいても、私だけは仲間に引き入れまいと、必死になってくれた。森の出入口を見つけてタジールを解放してしまったけれど、彼がカイザー夫人を二度目に襲った晩も、こっそり後をつけてやめさせるつもりだったのよ。残念なことに、まだ精神エネルギーの制御に熟練していなかったため、私たちのところで解放してしまったわね」  クオレは苦笑を浮かべ、リナのかたわらに立った。その首に白い腕を巻きつけ、リナは妖しく笑った。 「私は彼にも抱かれるつもりよ。どうする、D、斬ってみる? ——あなた、ハンターだったわね」 「報酬のない仕事はせん。それに、おれの役目はもう終わった」  それは、風とせせらぎの歌をともにきいた少女への、別れの言葉だった。  青い光の中でDはきびすを返した。  扉まで行きかけたとき、 「なぜ……奴を帰す?……」  この世のものとは思えぬ怨嗟に満ちた声が、闇の一角から漂ってきた。  Dは右手にレーザー砲を構えて歩み寄る灰色の影を見た。残るもうひとり——あのコンピューターが描いた男。 「やめなさい」とリナが強い口調で言った。「彼を殺しても何にもならないわ。私たちはどこででも生きていけるのよ。そのうち、血を求めずに済む方法を発見できるかもしれない」  影は首をふった。妙に緩慢な動きであった。 「……もう、┬そのうち┴はないよ……見たまえ——」  片手がマスクをむしり取った。 「!?」  リナとクオレが眼を剥いたのは、無論、顔の主がマイヤー教師だったからではなく、その顔自体が、蝋細工のように溶け歪んでいるせいであった。片目は赤い筋を引いて頬のあたりまでずり落ちていた。  Dの記憶がある言葉を発した。  失敗例は抹消せねばならん。 「驚かんようだね……やはり、気づいていたか……?」  Dはうなずいた。 「あの農家がここを脱け出した二匹の怪物に襲われたとき、流れた血液に君の分はなかった。理由は一つ。君が彼らの仲間だったからだ」痛ましげな声であった。少女の未来に光を認めていた男。これも別れの言葉だった。「どうやら君自身意識しないうちに、吸血鬼の本性が眼醒めていたらしいな。ファーンと娘を襲ったのは君か。だから、二つの血液を┬混ぜて┴調べたとき、別人の顔がディスプレイされたのだ」  紺碧の光がDの足元の床を蒸気とイオンに変えた。Dは微動だにしない。 「……なぜ、君だけが無事なのだ……我々もまた……同じようにつくられた人間ではないのか……なぜ、我々だけが……死なねばならん……」  何かが砕けるような音がして、マイヤー教師は床にくずおれた。 「|教師《せんせい》」 「来るな……」  駆けつけようとしたリナを制止し、教師はなおも立とうとした。  青い光がたそがれを貫き、壁と床を続けざまに穿った。  銃口が落ちた。  無限の怒りと抗議を込めた声が地を這った。 「……リナ……貴族の歴史など……学んでは……いか……ん……」  床にわだかまった腐液と衣服の塊をしばらく見つめて、リナはDに尋ねた。 「これが、私たちの運命なの?」  Dは無言だった。  声がきこえた。  成功したのはお前だけだ 「……私、あなたが羨ましい」  リナの言葉をDがどうきいたか。 「……憎いくらい羨ましい。——私たちがいつこうなるか、わかって?」 「わからん」  リナは茫然と立ちすくむクオレの首に腕を巻きつけて言った。 「このまま姿を消すつもりだったけど、私、明日の審査会に出るわ。あなたも来てくれるわね。マイヤー|教師《せんせい》の遺言通り、貴族に怨みのひと言も言ってやらなくちゃ。奴らには明日なんか、歴史なんかないんだって——私たちのように」  不意にクオレがリナのそばを離れた。 「——!?」  追いすがろうとするリナの腕をDは引き止めた。 「君に見せたくないんだ」  青年は、よろめきながら闇の奥に消えた。彼にも時が訪れたのである。  永劫に満ち続けるであろう青い光の中で、美しいハンターと少女は、苛烈な運命を静かに凝視しながら、いつまでも闇の彼方に目を向け続けていた。  翌日の昼下がり、村を訪れた三名の審査官たちは、やや青ざめた表情の村長から奇妙な申し出を受けた。  もと貴族たちの廃墟で審査を行いたいというのである。  滅び去ったものたちの遺跡で、これから未来を築く人間の選抜が行われる。痛快ではないか。  提案は受諾され、その日の夕刻、椅子で埋められた地下のホールは多数の出席者を迎えた。  用途もわからぬ装置類の前に立つ白衣姿のリナに、審査官たちは眉をひそめたものの、艶然と微笑まれただけで文句も言わずに席へつき、その後ろには村の役員と生徒たちが並んだ。  ただひとり、村長のみ憮然たる表情なのは、この会場をDとリナに強要されたためである。養女との関係を審査官の前で公表されれば、いかな権力者といえど村を追われざるを得ない。それよりも何よりも、彼は自分を凝視するDの鬼気に震え上がった。  そのDは、リナの背後、誰にもうかがえぬ闇の奥にひっそりと立っていた。  全員が席に着くと、リナは静かに一礼し、村長が立ち上がった。 「本年度ツェペシュ村選抜者:リナ・スーインであります。選抜試験一二〇〇ポイント中一二〇〇ポイントを取得。見事、今回の審査会に選出されました」  精一杯いかめしい審査官たちの表情が和んだ。事前に連絡を受けているとはいえ、やはり驚嘆に値する成績であった。 「よろしい。では、選抜決定にあたりひとつだけ質問する。『都』で何を学ぶつもりだね?」  会場に緊張の波が渡った。  クラスメートの多くは少女の希望を知っていたのである。しかし、それを口にすることは、すべての明日を失うことであった。そして、彼らはリナに明日のないことを知らなかった。  たたずむDの眼に、あえかな悲哀の色があった。 「その前にひとつ、お見せしたいものがございます」  リナの発言に会場がざわめいた。異例の申し出であった。たったひと言で済む審査は、これで長い長い語り草になった。 「かつて、この城は、貴族たちの辺境計算局と呼ばれておりました」  リナは、人々の好奇な視線に穏やかな声で対した。 「今から五千年ほど——正確に言えば、五一二七年前に建造されてから、ここではある極秘実験が行われてきました。五千年——この数字で何かを思い出されないでしょうか。歴史的に見て、貴族の種的衰退はこの時期に始まったとされています」  青い光がざわめいた。少女は何を語ろうとしているのか。  リナは右手を上げた。  少女と人々のあいだの空間に、一つの光景が出現した。完全な二次元平面でありながら、厚みと色を備えている。その背景がいま自分たちのいる地下ホールだと知って、人々は顔を見合わせた。  闇に沈んだ装置が輝き、影のような人々が走り、フラスコは虹色の煙を噴き上げた。実験台らしいメディカル・ケースに封じ込められた子供たちと、奇怪な光点の語るデータを読み取る黒衣の男たち。 「これは実験の記録です」  とリナが説明した。 「貴族たちの実験——それは、種的衰退を食い止める試みに他なりませんでした。ですが、すでにこのとき彼らの科学は、衰退は不可避との結論を導いておりました。彼らにとって避けられぬ衰退とは滅亡の意でもあります。この結論を知った少数のものたちが、どれほど運命を呪い、深い絶望にとらわれたか、┬私には┴容易に想像することができます」  ここでリナはにこりと笑った。 「いい気味ですわね」  会場がどよめき、緊張が崩れた。審査官たちが顔を見合わせて笑う。リナも笑みを湛えたまま、「そんな彼らの選んだ絶望への対抗策が、この実験でした。滅亡への必然性が彼らの遺伝子内に道標として記憶されているならば、遺伝子そのものを別のものに変えてしまえばいい。夜を昼に、闇を光に。種的存在力——エネルギー・ポテンシャルの遥かに強力な生物へ。こうして彼らは、人間と貴族の遺伝子的結合を試みたのです」  居並ぶ全員が、リナの言葉の意味に気づくまで数秒を要した。  今度こそ、驚愕の波が会場を埋め、村長と審査官のひとりが茫然と立ち上がった。 「どうして——どうして、そんなことを知っている? おまえは何者だ?」  審査官の問いに答えるように、空間の光景が変わった。  次々に産み落とされる異形の子供たち、人間以外のものに変じてゆく男と女。だしぬけに廃墟の一角が炎に包まれ、四散した。 「この実験が『都』を離れ、すべて辺境の一地帯でひそかに行われたということは、貴族たちの多くにとって、どのような意味を持っていたかの想像を容易にします。私たちがそれについて想像することさえ忌わしいように、彼らもまた、人間との結合を嫌悪いたしました。今ごらんになった反対派による破壊は一つの回答と言えましょう。秘密を知るものは廃墟から撤退し、五千年を沈黙が支配したのです」  何か言おうとした審査官は、少女の眼に浮かんだものを見て口をつぐんだ。不思議な色だ。憎しみと哀しみを混ぜると至福の色になるのだろうか。 「十年前、廃墟は息を吹き返しました。┬私にも┴理解し難いある巨大な存在が、私たちの村から四人の子供たちを捕らえ、同じ処置を施したのです。なぜ、今ごろになって? なぜ、その子たちが選ばれたのか? ——それはわかりません。種の衰退にもバイオリズムの高低があるように、その再生にも最適のときがあるのかもしれません。とにかく、子供たちは処置を受け、村へ戻されました。十年後、その成果が我が身に現れることも知らず、すべての記憶を抹消されて。そして今、成果は現れました。こんな形で——」  人々の視線はリナに集中した。唇のはしからのぞく二本の白い牙に。  もうざわめきはなく、しん、と静まり返った会場で、村長だけが両手で顔を覆った。軽く右手をふって光景を消し、リナは静かに続けた。 「ですが、もうすべては終わりました。四人の子供たちは運命に従い、村を去るでしょう。たとえそれが、他者に強制された運命だとしても」  リナはここで背後をふり返った。闇の中に立つものに、最後の呪咀をきかせるとでもいうふうに。そして、少女は言った。 「もう、彼らのことを哀しむ必要はありません。彼らにもやっとわかりかけてきたのです。自分たちが何を望まれたか。その行くべき先に何が待っているか。そして、ついに到達することはできなかったけれど、自分たちが、そこへ続く長い長い階段を一歩のぼった、と。  貴族たちは滅び、人間は残りました。けれども人間たちがその生物的資質——肉体と精神両面において、貴族にまさる生き物だと言い得るでしょうか。種的バイオリズムの高さが、生物の価値だと誰が断言できましょう。貴族に負けぬ獣性、残酷さ、より美しいものへの徹底した破壊衝動——私はこれもよく知っています」  冷え冷えとした瞳に見据えられ、村長は青ざめた。  再び光景が浮かんだ。  人々は、暗黒の|太洋《やみわだ》にきらめく星々を見た。その彼方にはさらに千億の星々がかがやき、雄大な渦状星雲が幾多の生命をはぐくみ、水素原子の海が存在そのものを生み出しつつあった。 「四人の子供たちは、ここへ行くはずでした」  リナの声は居並ぶ人々の耳に遠く響いた。 「人間と貴族の持つ黒い宿命のすべてから解き放たれ、一個の完全な『知的』生命体として、大宇宙の意志に参加するはずでした。  それはもう夢でしかなくなってしまったけれど、だからこそ、彼らは自らを悔やまないでしょう」  突然、光景が変わった。  暗黒は忽然と消え失せ、かがやきが会場を満たした。湧き上がる白い光はたそがれを追い払い、疲れたような人々の顔を、全身を、不思議と安らかな色で包んだ。 「これが新しい人類の可能性です」  満身を美しくきらめかせて、リナは静かにDの方を見、かがやく人々を見つめた。 「この可能性を見いだした┬人々┴、人間をより高次なものへと導く┬存在┴——彼らは本当に呪われているのでしょうか」  突然、少女は胸を押さえた。時が来たのである。しかしその声だけは高く誇らしげであった。 「私は貴族の歴史を学びたいと思います」  言い終わると同時に、リナはくずおれた。 「来ては駄目! 見ないで!——D」  人々は立ち止まり、美しい影がリナの傍らに膝をついた。 「顔だけ隠して……」  黒いスカーフが少女の顔に降りた。 「……ありがとう……D……そばにいてね。とっても怖いの……」 「ずっといるよ」 「……あの小屋で……」リナは苦痛の中から声をしぼり出した。「あの小屋で……朝、見つけた白い花……あれ……あなたよね……誰かが置いてったのに、あなたが気づかないはず……ないもん……」 「そうだ」 「……うれしかった。……とっても……うれしかった……私のこと、気にしてくれる人がふたりもいた……会いたかったな、もうひとりに……」 「しゃべるな」  リナの手が上がった。溶け崩れる寸前のそれを、Dはそっと握った。初めてのことであった。二度とはないことだった。 「さよなら……D。——┬私たちの可能性┴……」  声と同時に、Dの手の中で重みがすっと消えた。  誰も動かなかった。  立ちつくす人々の影を、まばゆい光が長く長く床に落としていた。  ドアの開閉音にひとりの細っこい少年が濡れた眼を上げたとき、美しい吸血鬼ハンターの姿はもうどこにも見えなかった。  数日後。若草が雪の名残と語る細い街道を、美しい人と馬が辿っていた。  夜は明けても、鉛色の雲が東の空を厚く覆い、朝の陽は届かない。  あるかなしかの風が黒いコートの裾を揺らし、見渡すかぎりの草の海を渡っていった。  人馬の背後から、朝いちばんの電気バスの唸りが近づいてきた。  五メートルほど前方に小さなベンチが置かれていた。これでも辺境と都とを繋ぐバス路線の中継駅である。  ベンチに腰を下ろしていた細っこい少年が馬と騎手に気づき、はっと顔を上げた。次の瞬間、照れくさそうな表情をつくってうつむく。手袋もない両手はあかぎれだらけだった。  かたわらの小さな旅行鞄には、所属地区の住所と姓名——マルコとあった。  馬と人は通りすぎた。  少しして、バスの停まる音。それが近づき、追い抜いていく。  いきなり窓があき、少年が顔を出した。細い手を必死でふりながら何か叫んだ。  けたたましいエンジンと車輪の音がその声をかき消した。だが、Dにはきこえた。少年はこう言ったのだ。 「ぼく、『都』へ行きます。貴族の歴史をやるんです」  バスの後を追うように一陣の風が吹いた。  Dは想い出した。  少女の最後の言葉に耳を傾けていた少年の顔を。限りなく誇らしげな眼差しを。恋するものの顔を。  そして、Dは知った。  白い花の贈り主が、少女の夢を継いだことを。  いつか雲は切れ、差し恵む光の彼方へと消えてゆく小さなバスを見送りながら、Dの口元に淡い微笑が浮かび始めていた。  もしも少年が眼に止めたなら、それを浮かばせたのは自分だと、いつまでも語り続けたことだろう。それは、そんな微笑だった。    『風立ちて“D”』完 [#改ページ] あとがき  一年以上のブランクを経て、ようやくDが帰ってまいりました。  一作目のすぐ後、着手するつもりだったのが、種々の事情により、いま、お手元に届きます。復活させた甲斐があればよいのですが——。  続篇を書けと、生まれて初めてのファンレターをくださった横浜の吉原美佐子さん。  もう一度Dに会いたいとおっしゃった北海道の小山理香さん。  まだ復活せんのかと怒りと励ましの声を届けてくれた会津若松の斎藤弥生さん。  興奮して眠れないとうれしい言葉をかけてくださった八王子の大貫佐百合さん。  Dが死んだなんて信じられないという田無の川名理絵さんと吉沢治美さん。 (Dは)何を考えとるかわからんな——と正直な三重の奥山かづこさん。  シリーズにせいとのたもうた横須賀の市川香さん。  就職で忙しい合間を縫って手紙を下さった静岡の横山沙緒里さん。  そして、電車を乗りすごすほどDが気に入ってくれた千葉の杉山由布子さん。  この一篇は、怠惰な作者からみなさんがもぎとったものです。ごゆっくりお楽しみ下さい。 84年3月11日。「キャプテン・クロノス/バンパイア・ハンター」を観ながら。    菊地秀行